2012年10月8日月曜日



とりあえず
4タイトル撮了した。
6.28-29
8.24
9.13
4日間で4本。
ほんとうに、撮れちゃった。
このかん、ずっと
現場で雨にあたったり
バケツに落とされたりしながらも
晴天を願い続けてくれた男が、ひとり。
名を、Hiroshi。
姓は、SUPER。
スタッフたちは彼を
SuperSoumaと呼んで
大切にした。
とときどきは放置した。
でも、彼は
最後の現場に
こんなメールをくれていた。

From: 相馬広志

 Date: Tue, 13 Sep 2011 11:07:20 
To: 東京WG 
 Subject:  Re:スタンバイOK ?

ミナサンノケントウヲ、ミマモッテイマス。

           
これぞ、男の心意気。

彼のエールに応えようと
スタッフたちが↓こんなムービーを。
素材のタイムを読むと

clip-2011-09-13 10;55;53

彼のエールの12分前である。

ま、人生は、そういうものだ。




そのとき
同じ窓辺のかたすみで

ペコちゃんは
うれしそうに踊っていた、という。

だれも
たしかに見たわけでも
おぼえているわけでもない。

ただ
窓辺は
奇蹟のように
美しい秋の陽が
さんさんと輝いていた。

それだけが
事実である。

↓の短いスナップビデオは
その時の破片を集め、
不肖T.Mが保存した。

ぎりぎりの
タイトロープだった4日間に
必要な天気をはこんでくれた
Mr.Sに敬意と感謝をこめて…


保存したままだったので
とりあえず。
一月からいままで
ログインエラーの連続で放置したままだった。
のんびり、再開予定













2012年1月2日月曜日

Daybreak In Spring はるはあけぼの

http://www.youtube.com/watch?v=Jd37JTwtGIg


一月二日夜、書き初め。
「飛ぶ鳥も遠くの空へ向かうゆえ一生一緒に居てくださいな」
福島泰樹から借り歌一首。
ことしも、どうかよろしく、おつきあいを。




昨日、元旦の朝
駅に朝刊を買いにいった帰り
松竹蒲田撮影所跡地の公園を散歩。
サザンカのつぼみが開きかけていたので手折った。
正月早々の花泥棒。
持ち帰って水を張り挿した。
数時間たつとほんのり咲きだした。↓






明けて今日。二日。
一夜でみごとに開花。↓




携帯で撮った写真をながめながら
なんだか文字のようだな、と思った。↓





で、素材に。
ことしの「書き初め」にしようと思いつく。
犬吠埼で冬の終わりに撮った夜明けと
天使の梯子素材を合わせ
福島さんから借り歌を一首。
サザンカの「花文字」で前後をはさんだ。


タイトル「Daybreak In Spring」と
2012.1.2の日付を入れ
海猫の鳴声を添えた。


   2012.1.2 22;22  T.M





2012年1月1日日曜日

とはいいながら、なお、生きるべし。


From: 益子自宅 <mashiko@mars.dti.ne.jp>
Date: Sun, 01 Jan 2012 00:26:47 +0900
To: 東京星菫派 <digital-japanesque@m-circus.com>
Subject: [digital-japanesque:00146] なお、生きるべし。
マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
身捨つるほどの祖国はありや 
               1957年1月「われに五月を」寺山修司

2011.12.31 22;21

こんなメールを、いま、出した。

静かな大晦日がゆっくり過ぎていく。

3.11を体験したにもかかわらず
月は、さえざえとかがやき
星々はしみじみときらめいています。

さて、夢工場
来年はどんな「時間」をつむぐことになるのだろうか?
いろんな時間をふりかえりながら
31日を過ごしています。

今日は、夢工場メーリングを読み返しながら
一日を過ごしました。
2004年から2011年の7年あまりで
メーリングNoは「4393」に。
だから、これは「4394」通めのメーリングとなります。
一年平均600通あまりのメーリングが7年あまり。

どのメールも開いてみれば
その時々の色と匂いと汗がにじむようで
気がついたら丸一日ながめ続けていたことになります。
あれもこれも鮮烈な記憶につながるものばかりですが
今日は、そのなかの一通、
いまはなき池田さんに宛てたメールが
とくに印象に突き刺さりました。

次の次を念頭におきながら
明日をどんな一歩で踏み出せばいいのか
正月休みの宿題を前に
手を付けることになりそうな「池田ワールド」
われらが「夢テアトル」の消息をたどりました。
その過程でひさしぶりに目を通した
2005年10月20日木曜日 14:20付けの池田さんへのメール
メーリングNo.843「邯鄲の夢」を、
あらためて引用しておきます。

実現したこと、まだ道半ばのこと、こもごもありますが
ぼくたちが、どこまで来たのか
これからどこへ向かえばいいのか
そのヒントが、ある…
そんな思いにとらわれたので。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
From: 益子自宅
Date: Thu, 20 Oct 2005 14:20:07
To: 夢工場ml東京WG
Subject: [yumekoujou:00843] 邯鄲の夢

池田さん
音環境問題についての打合せ
明日六本木TSPの地下でお待ちしています。
何時にきていただいてもダイジョウブです。
お話したように
「気配」がいちばんのテーマかな、と考えてきました。
閉鎖された環境ではないという敷地条件を逆手にとる。
これがミソ。
須賀川の3ヶ月で感じたことを活かしてみたい。
客の笑い声も、他のパビリオンから洩れてくる音も
蝉時雨も、森をわたる風も、雨音も、雷も
パレードの音楽も、久石譲のバカ映画も花火ショーも
すべてのノイズが強弱をつけながら
渾然一体となっている。
ぼくは、それが「生きていく」
ということだと思います。

外国の空港の待合室で時間をつぶしていると
コトバがわからないぶんだけ
音がきわだってくるように感じることが
よくありました。
その音の洪水の中から、聴きたい音だけを選び取って
いつのまにかここちよさに転化させている
そんなことがよくあった。

閉じられていない空間は、
この周囲の音をどれだけ生理的な
「快」の磁場とできるか。
それがとても大切な要素だと思っています。
家を買うということが、
人生を買うということなのだとしたら
ぼくたちは、もう少し踏み込んだ体感のしかたに
歩を進めてもいいのかな、と考えています。

バスを降りた、その瞬間から
「夢工場」は始まっている。
それがコンセプト。
だからこそ駐車場には巨大な落水が壁を作っている。
体感し出てきてバスに向うとき
あの洛水壁を通り越す瞬間に、「
夢工場」を取り囲むノイズが甦ってくる。
なんども体験したように、
あの壁はマジシャンの指パッチンなんだよね。

だから、
この次のステップには
各施設だけではなく
敷地の隅々まで、
あの落水壁の音がもつ心理効果を配置してみたい。

夢をさめさせない、工夫。

これが夢工場の音環境のテーマかな。
あの町は、季節の移ろい、
日々の移ろいそのものを体現する
そういう場所でもある。

ここに足りないのは
「あなたとあなたのご家族の暮らしです」

そんなことを営業マンが客に話せれば、
もうしぶんない。
もちろん、音環境の整備は、
そのための一里塚に過ぎませんが。

むじなの森の「しょうぐん」池田が
眠い目をこすって起きてくれるなら、
百万人の援軍来る、です。


あの大トラブル解決の夜のように
いつか夢工場のけやきの樹の下に寝転がって
月でも眺めながら
虫の声でも聴こうじゃありませんか。
ワンカップ片手に、邯鄲の夢でもたのしみましょう。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++


では、みなさま
よい年を。

2011.12.31 22;21 上弦 T.M






2011年11月8日火曜日

離れることが寂しい町は、そのひとにとってのふるさとなのだと思う  11.11.18

重松清「熱球」より

《あなたは周防に帰って優柔不断になったわけじゃないんだな、と気づきました。
優しくなったんだと思います。照れるでしょ。
でも、優しくなったから、つ­らくなるってあるような気がします。
優しいひとほど途方に暮れてたたずむことが多いんじゃないかな、って。
だって、「優しい」という字は、ひとが憂うって書くんだものね。
­かく言う私も、引っ越しの荷造りをしながら、
なんだか優しい気持ちで日本のことを思っています。
日本に帰って、去年の夏までの生活に戻っても、
たぶんいろいろなことに対し­ て優しくなれるような気がするのです。不思議です。 
ボストンに来たばかりの頃は、こっちの生活と比べるたびに
日本の嫌なところを思いだしてムカムカして いたのに。  
「帰る」せいなのかもしれません。
家でもなんでもそうだけど、ひとは「帰ってくる」と優しくなるのでしょうか。  
「帰る」ためには、いったん「出て行く」ことが必要です。 
あなたは、周防から出て行ったから、帰ることができた。 
私も、ボストンへ出て行ったから、 日本に帰ることができる。
そして、みんなで、東京に帰りましょう。周防にも「帰る」、東京にも「帰る」。  


離れることが寂しい町は、そのひとにとってのふるさとなのだと思う。》






たとえばこんなふうに
“思い出のその場所に”帰る日も、ある。
http://www.youtube.com/watch?v=L9VCK0tzse4


つどい、つながり、たしかめる。
二度とない“時間”だからこそ
いとおしく、そしてせつなく、あまい。
“永遠”は、ほんとうになにげない
ごくあたりまえの
記憶に留まることがないような
そんな時間の断片の中に
ふりかえるときらきらときらめいている。
http://www.youtube.com/watch?v=8xLXdv4Ozpw


だからわたしたちは
その二度とない
なんでもなかったはずの“時間”を
ときにむしょうに
くるおしいまでに
懐かしむ。
ひとは明日にむかって
生をいとなむ生きものだから。
未見の明日にむかってしか
生きられない生きものだから。
過ぎた“時間”は
いつでもどこでもなんどでも
くりかえし起きるような
また、こんな瞬間があるよ、
と思っていたはずの
ほんとうにちっぽけで
ドラマのかけらすらないような
まいにちの一瞬の中に
土の中のダイヤモンドみたいに
なげだされている。はず。
http://www.youtube.com/watch?v=-9sBJv4LXkA


ふるさと。古里。故郷。
ひとはだれもこころにふるさとをもつ。
父や母や山や森や川や海や鳥や虫や蝶のいる
じぶんが生まれ、呼吸をした
不安もおそれも戸惑いもなかった時間。
その郷里の光と空気を細胞の片隅にきざみ
ときに忘れながら、いまをかさねていくのだ。
めをとじたときに想いうかべる風景と時間が
わたしたちにとっての“ふるさと”だとしたら
あなたにとって、それは過去にあるのか
いま現在の、今日そのものに、あるのか
いずれにしてもそれらの想いは
器としての家にとどめられていくことになる。
家は、住まいとは、だからあなただ。
あなたそのものなのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=U-5JH6hk70s













2011年10月17日月曜日

はるかフンギを旅する恒吉へ。これが、きみの“ふるさと”だ。

定期検査で病院に行き、目の状態を診てもらうために散瞳薬を点眼し、家に戻って焦点のさだまらない状態で朝刊を眺めていて、その見えづらい視野に、福島三春町で暮らす武藤類子について記事がとびこんできた。

気になって、9/19の発言を探した。ユーチューブにその発言のドキュメントが出ていた。もうひとつ彼女がすすめてきた「ハイロアクション」というムーブメントのブログに発言全文が出ていた。

しるかぎり3.11以後に書かれたもっとも美しく力みなぎる“ふるさと”について書かれた日本語だと思う。
旅の途中で目にすることが、いいことなのかどうか、すこし迷う気もするが、異郷でこそ読まれるべきだ、とも考え、ここに引用したい。おれは読みながら、涙がとまらなくなった。

フンギで、あるいはその先の見知らぬ土地で、旅に疲れたきみの胸に、
かすかな灯りが、ふっとともってくれることを願いながら。

目を病みてひどくはかなき日の暮れをきみは真白き花のごとしよ
福島泰樹



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9/19 【さようなら原発】 武藤類子
みなさんこんにちは。福島から参りました。
今 日は、福島県内から、また、避難先から何台ものバスを連ねて、たくさんの仲間と一緒に参りました。初めて集会やデモに参加する人もたくさんいます。福島で 起きた原発事故の悲しみを伝えよう、私たちこそが原発いらないの声をあげようと、声をかけ合いさそい合ってこの集会にやってきました。はじめに申し上げた い事があります。
3.11からの大変な毎日を、命を守るためにあらゆる事に取り組んできたみなさんひとりひとりを、深く尊敬いたします。
それから、福島県民に温かい手を差し伸べ、つながり、様々な支援をしてくださった方々にお礼を申し上げます。ありがとうございます。


そして、この事故によって、大きな荷物を背負わせることになってしまった子供たち、若い人々に、このような現実を作ってしまった世代として、心からあやまりたいと思います。本当にごめんなさい。
皆さん、福島はとても美しいところです。東に紺碧の太平洋を臨む浜通り。桃・梨・りんごと、くだものの宝庫中通り。猪苗代湖と磐梯山のまわりには黄金色の稲穂が垂れる会津平野。そのむこうを深い山々がふちどっています。山は青く、水は清らかな私たちのふるさとです。
3.11・原発事故を境に、その風景に、目には見えない放射能が降りそそぎ、私たちはヒバクシャとなりました。
大混乱の中で、私たちには様々なことが起こりました。
す ばやく張りめぐらされた安全キャンペーンと不安のはざまで、引き裂かれていく人と人とのつながり。地域で、職場で、学校で、家庭の中で、どれだけの人々が 悩み悲しんだことでしょう。 毎日、毎日、否応無くせまられる決断。逃げる、逃げない?食べる、食べない?洗濯物を外に干す、干さない?子どもにマスクを させる、させない?畑をたがやす、たがやさない?なにかに物申す、だまる?様々な苦渋の選択がありました。
そして、今。半年という月日の中で、次第に鮮明になってきたことは、

・真実は隠されるのだ
・国は国民を守らないのだ
・事故はいまだに終わらないのだ
・福島県民は核の実験材料にされるのだ
・ばくだいな放射性のゴミは残るのだ
・大きな犠牲の上になお、原発を推進しようとする勢力があるのだ
・私たちは棄てられたのだ

私たちは疲れとやりきれない悲しみに深いため息をつきます。
でも口をついて出てくる言葉は、「私たちをばかにするな」「私たちの命を奪うな」です。
福島県民は今、怒りと悲しみの中から静かに立ち上がっています。

・子どもたちを守ろうと、母親が父親が、おばあちゃんがおじいちゃんが・・・
・自分たちの未来を奪われまいと若い世代が・・・
・大量の被曝にさらされながら、事故処理にたずさわる原発従事者を助けようと、労働者たちが・・・
・土を汚された絶望の中から農民たちが・・・
・放射能によるあらたな差別と分断を生むまいと、障がいを持った人々が・・・
・ひとりひとりの市民が・・・ 国と東電の責任を問い続けています。
そして、原発はもういらないと声をあげています。

私たちは今、静かに怒りを燃やす東北の鬼です。

私 たち福島県民は、故郷を離れる者も、福島の地にとどまり生きる者も、苦悩と責任と希望を分かち合い、支えあって生きていこうと思っています。私たちとつな がってください。私たちが起こしているアクションに注目してください。政府交渉、疎開裁判、避難、保養、除染、測定、原発・放射能についての学び。そし て、どこにでも出かけ、福島を語ります。今日は遠くニューヨークでスピーチをしている仲間もいます。思いつく限りのあらゆることに取り組んでいます。私た ちを助けてください。どうか福島を忘れないでください。
もうひとつ、お話したいことがあります。
それは私たち自身の生き方・ 暮らし方です。 私たちは、なにげなく差し込むコンセントのむこう側の世界を、想像しなければなりません。便利さや発展が、差別と犠牲の上に成り立ってい る事に思いをはせなければなりません。原発はその向こうにあるのです。 人類は、地球に生きるただ一種類の生き物にすぎません。自らの種族の未来を奪う生 き物がほかにいるでしょうか。 私はこの地球という美しい星と調和したまっとうな生き物として生きたいです。 ささやかでも、エネルギーを大事に使い、工 夫に満ちた、豊かで創造的な暮らしを紡いでいきたいです。どうしたら原発と対極にある新しい世界を作っていけるのか。誰にも明確な答えはわかりません。で きうることは、誰かが決めた事に従うのではなく、ひとりひとりが、本当に本当に本気で、自分の頭で考え、確かに目を見開き、自分ができることを決断し、行 動することだと思うのです。ひとりひとりにその力があることを思いだしましょう。
私たちは誰でも変わる勇気を持っています。奪われてきた自信を取り戻しましょう。 そして、つながること。原発をなお進めようとする力が、垂直にそびえる壁ならば、限りなく横にひろがり、つながり続けていくことが、私たちの力です。
たっ たいま、隣にいる人と、そっと手をつないでみてください。見つめあい、互いのつらさを聞きあいましょう。怒りと涙を許しあいましょう。今つないでいるその 手のぬくもりを、日本中に、世界中に広げていきましょう。私たちひとりひとりの、背負っていかなくてはならない荷物が途方もなく重く、道のりがどんなに過 酷であっても、目をそらさずに支えあい、軽やかにほがらかに生き延びていきましょう。


http://www.youtube.com/watch?v=5xdszFXI2J0&feature=related



2011年9月29日木曜日

30日は橋頭堡

明日というか今日。さて、どういうふうにカタチにするか。
なにを見切り、どれを拡大すればいいのか。
あと三日あったらパーフェクトだと…

とはいえ、30日は橋頭堡。
想いの深さと濃さをどれだけ魂に刻み込めるか。そこにつきるのだ。

2011年9月16日金曜日

【キサナドゥーの珍・伝説】ひろし&むじんがー 2011.9.17


かれは二人に見えるけど
一人です。
名は、Hiroshi
「ひろし、です(‥;)」

ひろし曰く
「好きな曲はアダモの♪雪が降る
でも、ぼくがいると晴れちゃう。
雪が降るのがスキなのに。ね」

だから
ひろし、です(‥;)


ひろしが自分だと主張する自画像↑


ひろしが追いかけられたイヌ↓ジョンです。




ひろし曰く
「マラカスも好きなんで
二人に見えるときは
呼ばれたりしています」


「ほら、こんなに
晴れてるでしょ。
ハレルヤHiroshiです」


「ぼくはね
ヤンキース時代のマツイが大好きだったよ。
あとね、はんぺん。芥子多めも」


「アタマにのせてるのは
カボチャをくりぬいてつくった
ちょうちん形の日傘だよ。
見えないけど
てっぺんのところに
小さな穴をたくさん開けてるから
すーすー風が入ってくる。
走るとアタマの中が
びゅんびゅん風の音で
いっぱいになるだす。

だから、ひろしです。
♪雪が降る が大好きな
はれ男の、ひろし、です」


「えっ?
スーパーソウマ?
なんだろ、それって」

彼が生まれ育ったのは

北のほうのいくつもの山を越えた
森の奥にある囲炉裏端のある家↓だといいます。


http://www.youtube.com/watch?v=HyZe3vy-7Ic

やさしい父と母の愛に包まれ
ときどき訪ねてくるクマやたぬきとともに
雨の日も風の日も嵐の日も
もちろん晴れた日も
野や川を駆けまわり
立派な男に育ちました。






その村の名は
「ささやんか」。
村の観光課がつくった
20年前のPR映画は↓
長いから
忙しいひとは飛ばしてね。





ある雨が降り続いた春の夕
母親が読んでくれた
宮沢賢治といふるさとの詩人のコトバに
彼は心を奪われた、と後に語っています。



それは、こんな詩だったとか…




雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ





それ以来

彼は囲炉裏端で
一日千回の腕立て伏せや
うさぎ跳びや
ヒンズースクワットをこなし
囲炉裏の周囲を一日に1000周走り
クマと相撲をとり
たぬきと腕相撲をして
シェイプアップしたのだとか…
ひろしは、そう言ってます。






そして桜が散り、
あたりが菜の花色に染まった
春のある日
かれはふるさとの駅を
旅立ったといいます。


ホメラレモセズ
          クニモサレズ
ソウイウモノニ
ワタシハナリタイ



この4行を心に秘め

ねじり鉢巻をして
ふるさとの春の駅のホームで
降りしきる桜に見送られながら
旅立ったのだと
ひろしは、そう言ってます。


はちまきには
あの「雨ニモマケズ」が
書かれていたことは
言うまでもありません。





兄弟のように育った、あのたぬきが

桜の花びらが舞う
単線の鉄路沿いを汗だくになって
ひろしの後をいっしょうけんめい
追いかけていったことも
知らなかったのだ、と言います。

のどかでおだやかな
眠ってしまいたくなるような
うつくしいの午後のことでした。










それからいくつもの昼と
数えきれない夜が過ぎました。



ある日
泣きながらお天気を祈っている
撮影隊のひとたちと出会いました。
その撮影隊は
クルマの上に大きな旗を立てていて
その旗には、こんな文字とマークが描かれていました。



「ひとついいですか
これはなに?」と、ひろし。



これは、ひろしのクセで
すぐに話せばいいことでも
つい
「ひとついいですか?」
と、聞きたくなってしまうんだなぁ
とひろしは言います。



それはさておき
このときひろしの胸の奥に
ぽっと二つの文字が浮かんだのだと言います。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ

ふるさとを立つ
きっかけとなった
郷里の詩人の、あのコトバです。


♨と雨にも風にもマケズと
土砂降りの雨の下で
この二つのココロザシが
出会ったのだ、と
ずっと後で
ミルキーをほおばったひろしが
聴き取りにくいコトバで話していました。

さて話を戻します。


その撮影隊には

何年か前に訪れた
村の雷電神社奉納相撲で



ほっぺの赤い村娘たちに人気のあった
大関!




とほめたたえられた
大きな男がいました。

この男は、いつもお天気になるといいな
そうすれば撮影がうまくいって
みんなとおいしいご飯が食べられるのさ
と、考えていたといいます。





だから、
ひろしのまだるっこしい問いに
ちょっとムッとしたけど
「なんとかしてくれますか?」と
聞いたらしい。



雨ニモマケズ




と意気込んでいるひろしは
土砂降りの雨などものともせずに
いっしょうけんめい
「晴れるといいね」とつぶやきながら
お天気の回復を願ったのだと言います。






なかなかやまない雨に
「だめじゃん」と
言いかけた大きな大関のような男は
あまりに熱心に祈っている
ひろしの横顔を見て
文句を飲み込んだといいます。
飲み込んだ拍子に
ぐぅっ
と、音が出ました。

大男は、
いつもおなかが空いていたのです。





そんなことをしているうちに
あたりまえだけど
雨がやみました。

降った雨は、いつかやむ。
これは天が決めたことだけど
大男とひろしは
わがことのように喜んだとか。
うれしくなって抱き合って
晴れたらおなかが空いたねぇ
と、どちらからともなく固く抱擁。






それでスイカでも食べようか
ということになり
いっしょうけんめい食べたんだって…


その日は
とても美しい夕焼けになったと
スイカでふくらんだおなかをさすりながら
大きな男が言っていました。





その日から
ひろしは大男のいる撮影隊と
いっしょに旅を続けることになったらしい。


そうして
どうしてもお日様が欲しくなると
「おい、ひろしさん
あの☀祈りをたのみますぜ」
と、お願いされるようになりました。

ひろしが☀祈りをするとき
撮影隊のみんなは
「♪ハレルヤぁ」
と手拍子を打つのだとか。
これは
ひろしの後を追って
やはり撮影隊の一員となった
あの、たぬきが教えてくれたこと…


ここでひろしが同行することになった
撮影隊のことをすこし…


撮影隊がかかげた旗に描かれた
「ゆ」の文字と♨は
べつだん深い意味もなく
みんながたまたま♨が好きだった…らしい。
北の方の撮影で
後生掛♨につかり






あぁいい湯だなぁ
とほげほげしたみんなが
数日後に鶴の湯♨にたどりつき




その露天でしみじみしているときに
そうだ、これからは♨を
ぼくたちの旗印にしようと
のぼせたアタマで思いつき
その勢いで
露天風呂の上に昇った満月を
「ゆ」一文字が描かれた
宿の手ぬぐいを腰に巻いて


つまり、ほとんど全裸で
いっしょうけんめい撮ったのだとか。
それが「光のニッポン」の冒頭満月


光の日本↓
http://www.m-circus.com/columbia/02hikari.html


長いから時間のあるときに見てね






さて、たぬきです。
撮影隊の一員となったからには
たぬきたぬき
とばかりじゃなぁ
と、大男は三日三晩
あれやこれやを飽食しながら
考え続けたらしい。
「むじなってどう?」
と、たぬきにたずねました。
たぬきはすかさず
「やだ」
と身振りで答えたとか。
また三日三晩アタマをなやめ
腹を満たした
大男がたぬきに聞きました。
「むじんがーは?」
と。


やや迷ったあと
たぬきはこっくりとうなづいたとか。
で、むじんがー


ひろしが撮ったむじんがー↑




たぬきは村にいたころ
火の見やぐらの下に一日おきにやってきて
いろんな冒険のお話をしてくれる
紙芝居のなかで
マジンガー物語が大好きでした。
むじんがーとマジンガー。
これが、こっくりのワケでした。


それはともかく
それからのむじんがーは
撮影隊についてまわって
撮影隊のようすを撮影する
記録係になったらしい…
↓その第一番目のお仕事が、これ。
http://www.youtube.com/watch?v=Ydrua2UG_Ss



そして
ひろしのパワーを
最大限に発揮し
ハレルヤマンの名声を不動にしたと
撮影隊の間で伝説となりつつある
あの8.24ロケの出来事と、なった。
撮影の合間は
すべての時間が雲にふさがれ
ついには雨雲と雷雲までが空をおおった
「あの」8.24。





風はらむヨットの帆のような
真っ白なスクリーンが
真っ青な空にあがったその瞬間
いまでは撮影隊の間で
畏怖を込めて「ハチニーヨン
とも呼ばれている
いちばんめのレジエンドが生まれた。


この風にはためく白いスクリーンは
撮影隊に♨部発祥の仕事となった
ある作品のことを思い出させたのだとか。


風と、走る。↓
http://www.m-circus.com/subaru/01legacy.html
である。


ま、思い出は、ともかく。


照りつける日ざしと
プールの底のような湿気の中
たまたまやってきた
近所のクワガタ君の力も借りて
すべての本番の瞬間のたびに
真っ青な空を出現させた
「ハチニーヨン」のひろし

↓これは
その灼熱の一日を
アタマにのせた葉っぱの力で
なんとか乗り切った
むじんがー作の第二弾。

張り切りすぎたむじんがーは
腰を痛め、その夜から
三日三晩寝込んだという。




で、こっち↓は
あまりのハードさに
腹を減らしすぎて
三日間寝込んだという
大男ご一統の
撮影終了直後の茫然自失記録。






ひろしの挑戦は

さらに長州でも続けられたと言います。



腰を痛めたむじんがーを東京に残し
撮影隊と大雨の首都高を
羽田に向かった半ズボン姿のひろしは
空港で雨のため離陸見合わせに遭遇。
が、
なんとか長州に駆けつけたいと
チョコバーを口に無心でを念じた。

そのかいあったか
翌日の長州はみごとな日本晴れ。
撮影隊の信頼はさらに深まったらしい。




女子撮影隊のやのが撮ったその日の空



雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル




帰りの飛行機の中で

まんぞくそうな笑みを浮かべ
ミルキーを三粒ほおばった
Mr.☀Souma
不敵な笑みを浮かべていたと言います。
その笑みが
ミルキーの甘さのためなのか
次の撮影にそなえた自信なのか
それはだれにもわからなかった…





それから
二週間と三日。


撮影隊の大男から
「こんどもうまくたら
ミルキー1ダース
あげちゃおうかな」
とささやかれた
ひろしが嬉々として
絶好調の秋の空を呼び寄せたことは
もう、言うまでもない…



腰の痛みがなおった

むじんがーが
いっしようけんめいに撮った
↓これがその記録

http://www.youtube.com/watch?v=gevfjdoBF4s


その日は

目が覚めたときから
くたびれて眠りにつくまで
撮影隊がやすむひまもないほど
ずーっときれえに晴れていた。
☀☀☀☀☀


あんまり晴れすぎて
月までしっかりと撮れたと
大男をはじめ撮影隊は
(*⌒O⌒*)*^_^*●^_^●)
ポケットに入り切らなくなった
お礼のミルキーを
むじんがーにも分けて
二人はならんで帰っていった。


その後ろ姿を
中秋の十六夜の月が
こうこうと照らし続けていたとか。


これは町の噂だけど。


ひろし
関門海峡を越え
玄界灘の巌流島近くに
向かおうとしているらしい…
むじんがーと二人
ミルキーをほおばりながら
いまごろは東海道を
日が沈む方向をめざして
ひたすら一歩一歩、
進んでいるのだとしたら
「また、ミルキーしいれなくっちゃ」

大男は
ふんどしをきつく締めながら
しみじみ思うのであった。

長旅で疲れたら
ここで足湯につかって



北九州空港の足湯
http://www.kitakyu-air.jp/service/relax.html


旅の疲れをほぐしておくようにと
携帯メールを打つのであった。

そして、
こんどは「小倉あじ?」

(大男は、かってなこと想像してるけど小倉と小倉あんは無関係。詳しくはhttp://www.geocities.jp/taizoota/katudo/ogura/ogura.htm)


などとつぶやきながら
麻布十番の浪花家総本店の巨大たいやきを
しっぽのほうから
パクつくのだった。




とうぜんのことながら
これが 三個目。

そして大男は
このまえ小倉に行った帰りに食べた
刺身や旭蟹のことを思い出しながら
さらに、ひろしたちにあげようと集めた
ミルキー一家を思い浮かべ
幸せな眠りについたらしい…







zzzzzz…







さて、こちら↓は
いつ撮られたのか
だれが撮ったのか わかんない
まぼろし?
と撮影隊の間でささやかれている
ビデオである。


むじんがーに
「ひとついいかな?
きみがつくったの?
と聞いたら
「じぶんで撮ったんじゃないの」
と他人事。


そうなのかもしれないし
そうじゃないかもしれないな。