2006年4月1日土曜日

第4弾荒編 風の消息 '06/04

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2006.4.1/荒編集
菊池雅志@東京星菫派音楽顧問の“光の日本”から仮あて
place;茨城県古河/秋田県大沼

メモ;4.2 am1:00
使えそうもないなと思っていた素材が、思いがけない力感のある世界となって甦った。正直、撮影中にモニターを見ながら、これはムリだなと思い、スタッフにもそう伝えた古河の豚カツ屋・勝太郎駐車場裏の草地の映像。時間勝負のスタジオに持ち込んでいたら、まちがいなく没にしていた。一昔前のリニアでの荒編だったら、絶対にありえなかった。時間を好きなときに好きなだけ消費できたこと、プロ用ではなくアマチュア用と見なされているアプリケーションが予想をはるかに越え素晴らしい使いがってを備えていたこと。使ったのはバージョンアップしたばかりのiMovie6。PCはデスクトップがpowerMacG4とノートがpowerbookG4いずれも数世代前のマックにすぎない。この段階では当然のことながら手前みそではあるが、到達しようとしている内容に、目をみひらく思いが強い。刺激してくるのだ。刺さってくるのだ。素材の充実が、なによりの根拠ではあるのだが、プロとアマチュアのボーダーなど、もうどこにも存在していないのだと実感させられている。進化の袋小路で針千本状態となってしまった毒魚・フグの姿が、あちこちに散見しはじめた馴れきったスタッフたちのうす笑いに重なっていく。満を持したというつもりはない。ただ、状況が整わなかったことに尽きるのだ。この数日、とりかかってしまって以後、新宿はおろか古河すらも刻々と遠くなっていく。誰がどんな家族構成になろうと、どんな暮らしぶりを演じてくれようと、もうどうでもいいよ、と思いはじめている自分がいる。どうでもいいのだ。あそこには、おれがいない。どんなにごまかそうと、いられるはずもないのだ。そういうことが1本仕上げるごとにあからさまになっていく。手がけなかった、手がけられなかった、ほんとうのわけは、このあたりだったのかもしれない。いずれにせよ、“風”に指を触れてしまった。“風の息”に、頬をなぜられ、まどろみから目覚めさせられてしまった。そういう思いが強い。仮あてに菊地さんの“光の日本”に使った“子らの丘”を。風の子が笛の音に合わせかろやかに踊っているような、そんな世界をつくれたと思う。うれしい。

2006年3月31日金曜日

第3弾荒編 water dance '06/03

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2006.3.31荒編集
菊池雅志@東京星菫派音楽顧問の“水の日本”から2曲仮あて
place;秋田秋扇湖の湧水

第2弾荒編 summer rain '06/02

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2006.3.31朝
六月の雨。greenwater

2006年3月29日水曜日

朝な夕なに

 春は、あけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは 
 少し明りて紫だちたる雲の細くたなびきたる。
 夏は、夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。
 螢の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、
 ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし。
 秋は、夕暮。夕日のさして、山の端(は)いと近うなりたるに、
 烏の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、
 飛び急ぐさへあはれなり。
 まいて雁などの列ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。
 日入り果てて、風の音、虫の音など、はたいふべきにあらず。
 冬は、つとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず。
 霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、
 火など急ぎ熾して、炭もて渡るも、いとつきづきし。
 昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、
 火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし。
            清少納言 枕草子

清少納言は、夜明けや朝、夕暮れや宵には風情があるが
昼間の順光の世界はたいしたことないのよ、と書いている。
Japanesqueはこれにつきるのだ。
撮影部的にいえば“斜光”の時間帯。
digital_Japanesqueシリーズは立ち上がり期は、
まったくのオリジナルとしてスタートさせるので
制約は、ゼロ。パーフェクトにゼロ。
時間枠も内容も、当面は
“つくってみたい”“みてみたい”のただ2つのことを
大前提にすすめていく。
そしてに“みたこともねぇ”ニッポンを目ざしたい。

だから
朝と夕だけですべてを切り分けることも、とうぜんあり。
ワクワクドキドキしちゃうよな。

2006年3月28日火曜日

第1弾荒編完成 summer water '06/01

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たとえば夏休がはじまったばかりのよく晴れ上がった1日。気が遠くなるような“黄金の時間”が目の前に開かれていて、それはなんだか永遠につづくようにも感じ、ワクワクしながら、どう過ごそうかと考えを巡らしている間に、蝉の声に誘われいつのまにか眠ってしまった…

“夏休み”は、いつもそんなふうにして最初の数日が過ぎていった気がしている。それから土用波がたつころまでは、文字通り“黄金の時間”だった…
digital_Japanesqueをどこから切り出そうか、この数週間ずっと考えてきたけど、ふと、夏休の最初の時間はどうかな、と思った。ぼくのあなたの、そしてすべての人にとっての“黄金の時間としての夏休み”。そのはじまりの時間。

ため息をいくつもつきながらやっと自分の場所に帰った、ぼくやあなたたちが、1日の汗と埃を洗い流し、冷蔵庫からよく冷えた缶ビールを取り出す。喉ごしに落ちていく少し苦い麦の水に細胞にたまった疲労をとろかしてもらいながら、もの足りなさを感じたとする。

そんなときに、つまみがわりに、このshortmovieがあったらいい…

うまい枝豆のかわりに、あるいは柿の種といっしょになって、ぼくやあなたやすべてのひとの疲れたこころを、ほんの少しだけほぐすことができたら…

1ビア10ミニッツmovie

digital_Japanesqueseriesの第一歩を、まずここからはじめようと思う。はじめたいと考える。

なんだ、これじゃ癒されないぞぉ、という人もあろーが、これは第1弾。お楽しみはまだまだこれから。

春のうちに葉桜が残っている初夏までには
1ビア10ミニッツmovieを、とりあえず2ダース、24タイトル完成させる予定。

加速するぜよ。

    2006.3.28朝 T.M

2006年3月27日月曜日

ひとひら


この春の桜素材撮影のテーマ
佐々木洋一詩集より


さくらのひとひらが落ちてきたら
思わずそっと手のひらを出したい

さくらのひとひらが手の轍ではずかしげに身をちぢめたら
思わずそっと息を吹きかけたい

落ちてきたものよ
落とされたかも知れないものよ

ぼくの心は時々やさしくなって
ぼくの心は時々いきり立つ

さくらのひとひらが不在のように落ちてきたら
思わずアッと声を出したい

着飾ってすぐ落ちてきたのかも知れない
ぼろぼろになって落ちてきたのかも知れない
そのひとひらのために

さくらのひとひらを
手の心におさめて
心の血であたためてやりたい

はるか彼方の寒さをこえて
落ちてきたひとひらを
ひとひらのあわい存在を

2006年3月26日日曜日

風のササヤンカ村



Amazonから25日に届いた日本現代詩文庫第11巻“佐々木洋一詩集”の年表を眺めていたら1992年40歳の欄に、音楽と詩のビデオの1巻として『風のササヤンカ村』(日本コロンビア)、とあった。販売されたタイトルは正式には『風の日本』。『風のササヤンカ村』でいこうとしたが、頭の悪い担当に当たり障りのないタイトルに変更されたことを覚えている。佐々木洋一氏に送ったのは、だからスタッフ用のビデオだったと思う。その『風のササヤンカ村』が、こんなところに正式なタイトルとして記されていることが、ちよっと嬉しかった。奥付を見ると1997年5月25日とある。8年10ケ月前の今日。『風のササヤンカ村』は、そうしてみるとおよそ9年にわたって、存在し続けていたわけだ。いいタイミングで、知ったな、そう思う。