2006年12月28日木曜日

ぼくらのyellowsubmarine2006.12.27


'06.12.28am0:30今年最後の乾杯
忘年会のあった地下を出て、
タクシーを捕まえようとしたが
春のようにあたたかな夜に、帰る気にもなれず
Nオカ、Kヤマ、Wナベを誘った。
みんな同じような気分だったらしく
、鍛冶橋、八丁堀あたりをそぞろ歩く。
名前を忘れたが
4時まで開いているというカフェを見つけ入る。
珍しいことにハワイアンカフェ。
店内には甘いコンテンポラリーハワイアンが流れ
十二月の二十八日の日本とは、また異なる空気が。
Nオカがビールを頼んだら
なんとコナの地ビールが登場。
コナは、DJ'06マルフプランニングのラストに書いた
nightrainbowの町。
メンバーの顔ぶれにふさわしい帳尻なので
今年最後の乾杯とする。
撮影者はWナベ。


12.27夜 “ぼくたちの黄色い潜水艦”
30年前の名古屋時代。まだ若く郷里で貧乏暮らしを楽しんでいた親友が11月に亡くなり、今夜27日が四十九日にあたるのだと前置きし、yellowsubmarineの自己流意訳を語りだそうとした、その瞬間に、彼は声を失った。涙をぬぐって、再びマイクを前にしたが、またひとことも発せず、慟哭。R.O。60歳近くなるはずの成功した役者が、あんな席で激情にかられ、身も蓋もなく涙をあふれさせるのを見ながら、鼻の奥が痛くなった。どこか遠い昔に、サーチライトに照らし出された夜の底で聴いた、いくつものシュプレヒコールを思い浮かべた。この男と年明けに仕事をすることになるのだと思うと、昂ぶるものがあった。別れ際に、挨拶を交わしたときには、いつもの気さくな好感度抜群の役者R.Oに戻っていた。ひとは、深いな、としみじみ思った。生きているのも悪くねえな、と切々と思った。一年の暮れ方としては、申し分ない。これまでに聴いたyellowsubmarineの中で、最高の一曲となった。

2006年12月27日水曜日

♪明日という字は明るい日と書くのね


digitalJapanesqueシリーズをやろうと決めた夜?のカメラマンとVE

明日という字は明るい日と書くのね
あなたとわたしの明日は明るい日ね
それでもときどき悲しい日もあるけど
だけどそれは気にしないでね
二人は若い 小さな星さ
悲しい歌は知らない

若いという字は苦しい字に似てるわ
涙が出るのは若いというしるしね
それでもときどき楽しい日も来るけど
またいつかは涙をふくのね
二人は若い 小さな星さ
悲しい歌は知らない

「悲しみは駆け足でやってくる」
      アン真理子 作詞
       中川克彦 作曲

2006年12月26日火曜日

肌にゃあ墨ば打てても…


小牧にある某研究所で今年最後の撮影。
24日イブの午後に東京を出、日暮れに小牧着。
一泊し、25日終日、研究所内でロケ。
最終カット20:00。撤収後夕食をとり
春日井ランプから東名に乗ったのが22:00。
蒲田着26日3:00ジャスト。
撮影のあい間に外の喫煙所を何度も往復。
灰皿とベンチの置かれた一角に寒椿が咲いていた。
携帯電話のカメラで撮った。

雨の東名を走りながら
iPodに入れておいた八代亜紀の“雨の慕情”をリピート。
東京に着いて、柚子湯に入っていたら
なぜか緋牡丹博徒・藤純子のキメ台詞が浮かんだ。
うろ覚えだが
幼い女の子に向って
腕の入れ墨を見せながら
たしかこんなふうに言ったはず。

  「見なっせえ!
   女だてらに、
   こぎやんもんば背負うて生きとっとよ。
   だけん、身体じゃナカ!
   肌にゃあ墨ば打てても
   心にゃ誰れも打つことは、できんとヨォ」

2006年12月20日水曜日

12.18記念


二年前の「ある秋のクリスマス」13分版を
はじめて越えられたかな、という気もします。
その余韻を胸に、
埼京線と宇都宮線を乗り継ぎ古河へ向おうと
エレベータに乗ったら、三上さんがいた。
一階で三上さんに見送られタクシーに乗った。
タクシーの中で、ふと思いました。
「Japanesque」だったんだ、と。
あの「光の日本」「風のササヤンカ村」を
一緒につくった三上さんと偶然会ったことで
新・春-夏篇に強く魅了された意味が
わかったような気がします。


それから
とちゅうできれいな日没を見たけど、
着いたら真っ暗だった。

その暗闇にあの町のすべてが
新しいイルミネーションで
あわやかに浮かび上がっていました。
六本木や新宿のような東京イルミネーションとは
まったく異なる、ふつうの家が集まった
どこにでもある小さな町。
派手なものはひとつもなく、
それぞれの異なる家族たちが
思い思いに楽しんでいる…

すこし距離を置いてみると、
それが小さな電球の道のようなもので
つながれているようにも見える。
眠りにつく前のシナプスのきらめきのようで
ふしぎな有機体のようにも感じられた。

あたりは渡良瀬・古河の深い闇。
その闇の底に、ひっそりとかがやくイルミネーション。

その明かりをぼんやりとながめながら
K2の仕上げを思い浮かべる。
桃源郷のような春と夏の6分を。
そばに誰もいなかったので
「マシコ、偉いぞ」と呟いてもみる。

ポチが答えはしなかったけど、
あの公園の真ん中に
見えないスクリーンがあって
5つの家に暮らすみなさんの
春や夏や秋や冬をいろどる
歓びや怒りや哀しみが
浮かんでは消えていく。

演出冥利につきる一瞬だった。

この二年間は、
一本仕上げるごとに「終わったな」という
虚脱感にしばらくの間、とらわれていたけど
今夜はなぜか、次の展開ばかりが浮かんだ。
奇妙なことに、まだまだ無限に、
音も映像も工夫してみたい、と素直に思えた。

六本木の興奮と古河の深い闇が
きもちよく溶け合って
ほんとうに記憶に残る日になった。

2006年12月14日木曜日

♪愛がなければ人生はないわ…赤穂浪士討ち入りの日に


ジャケットのポートレートを眺めていると、
しみじみと泣きたくなるような佳い女Omaraは歌ったのだという。
チェ・ゲバラが奔流のように駆け抜けた
40年代から50年代のハバナの夜を思い浮かべながら…

では、古川のキューバからのぶじ帰国を祝い
深夜ではあるが祝杯をあげたい。
伴奏は長岡がくれたDiana Krallの♪Besame Muchoだ。
Omara Portuondoの9分バージョンが手に入ってれば
そいつもかけてみたかったけど…
古川、よく帰ってきたね。
武勇伝?はイブの名古屋行きロケバスの中で聞かせてくれ。
乾杯!

2006年12月2日土曜日

晩秋90" 12.1

↑タイトルをクリックするとムービー

3週間にわたる奈良での地震実験撮影のあいまに二度、秋を撮ることができた。
これは11月29日、撮影の中休みの一日、斑鳩の里で撮ったもの。
苔むした塀の瓦と渋柿。緑と朱の2色を90"にまとめ、イタリアの古歌をあててみた。
ま、この秋のおまけ。番外篇ということで…
さすが、法隆寺近郊。柿の風情が天下一品ではある…
実験素材整理の気分転換に。明日から、また、奈良。

2006年11月25日土曜日

わが町blog

↑タイトル「わが町blog」をクリックすると飛べます。

あなたが良く知っている 
あるいは住んでいる
どこにでもある、ごく普通の“町”
これは、その町で暮らす数組の家族たちの
ごくあたりまえの日々の記録…らしい。

これも、もうひとつのdigitalJapanesque。

2006年11月18日土曜日

No.100 fall in love… 11.18

↑タイトル部分をクリックするとムービー再生


しし座流星群が極大を迎える日を記念してひさかたぶりに荒編を追加する。撮影場所は奈良。

2001 11/19 09:09のwebmemoから…
流星雨、野辺山で体験。魂を奪われた。

流星群、野辺山の先の峠でゲット。18日夜10 時、野辺山と須賀川の天候を最終チェック。野辺山の条件が良さそうなので中央高速に向かうが工事渋滞で都心を抜けるのに一時間かかった。野辺山に着く寸前から流れ星が肉眼で見え始めた。1993年に西表島で毎晩数時間眺めたベルセウス流星群もすごかかったが、獅子座流星群には度肝を抜かれた。流星雨という呼び名通り。文字通り「星降る」世界に身を置いた。二時ごろから二時間あまり、氷点下五℃まで下がった峠で堪能しつくした。ときにアスファルトに横たわりながら凍えるような寒さも流星の迫力に溶けた。自然は、あらゆる想像力の境界線をやすやすと越える。中央道を暁闇から日の出にかけひた走りロケ現場の大森に集合時間前に着いた。あの流星群を眺めたあとて仕事に戻るのはいささか切なくもあるが、快晴。野辺山に比べればすでに十数度も気温は高い。

■出現の歴史 http://ja.wikipedia.org/wiki/しし座流星群 より
しし座流星群の出現に関する最古の記録は902年のもので、スペインなどに記録が残っている。その後も中国や日本、ヨーロッパなどで繰り返し記録されている。1698年、1799年、1833年、1866年、1966年、1999年、2001年に大出現があった。これらの大出現は流星天文学の発展にも大きな役割を果たしている。極大を迎える時期は70年に1日程度の割合でゆっくりと遅くなっていて、10世紀には11月初頭、15世紀には7日から10日頃、20世紀初頭には15日頃、そして21世紀初頭現在では17日から19日ごろとなっている。

2006年9月29日金曜日

5年越しの“ヤクソク”を忘れないために


福島県の佐藤知事が辞職した。いくつものシーンがフラッシュした。この5年間、お目にかかるたびに一方的に話してきた約束がある。そのヤクソクを果たしたい。ここに載せた写真は5年前、2001年晩秋の一枚。渡辺が手に入れてきた会津蝋燭の炎を跡地の瓦礫の上で燃やし、一通の手紙を灰にし、その灰を土に戻した。知事に出した手紙の写しだった。“森に沈む都市”への共感と消失してしまった“特別な場所”をいつか各地に再生したいという決意を書いた手紙だった。彫刻家・安藤がつくった“森の人”をフィナーレの日に燃やし、その灰を大地に蒔いたように、跡地に灰を蒔いた。それから秋になるたびに五度会った。会うたびに、ヤクソクをした。その誓いをカタチにすることを、忘れないために書いておく。これから、だ。

2006年9月10日日曜日

パイロット版3巻セット完成



8日付けで31タイトルを選びパイロット版として全3巻にまとめました。
HD素材をDVにダンコンして編集したものですが
デジタルジャパネスクシリーズの豊饒さは充分に確認できるレベルです。
必要な関係者は渡辺まで↓ご連絡ください。
mctokio@mac.com

2006年9月6日水曜日

前哨戦十三夜at神田




重陽の節句9日再開としたが、6日が前哨戦となった。雨の夕暮れ、神田サボールに集った長岡、郡山、渡辺、益子の4人。高校時代のバカ話などで気勢を上げた後、九段下へ。(某所での30分の打合せ←実り多いもので進展したら報告します)雨の九段下から神田へタクシーで移動し、あかりやさん推薦の四川一貫を目ざしたが、見当たらず10分ほど路頭に迷う。やっと発見し、さっそく注文。おまかせで出てきた一品目がこの野菜炒め。なんだかわからないがうまかった。あかりやさんに店で食べている旨を連絡したら10分後に顔を出した。神出鬼没なひとである。サマータイムコレクションのことなどを肴に超オススメの麻婆豆腐へと進む。これが絶品。山椒をたっぷりと使った薬膳料理の趣でかつ、ウマイ!!!あかりやさんの助言でご飯をもらう。うっすらと汗がにじむのをティッシュでぬぐいながら、ひたすら食べているうちに、きれいになくなった。麻婆豆腐、あちこちで食べたけどこれほどうまいのははじめてである。ぜひ倉持カメラマンを連れていきたい。四川一貫を湯治部推薦の麻婆豆腐店としたい。教えてくれたあかりや氏に深く感謝したい。あかりやファミリーに別れを告げ神田駅までそぞろ歩いた。その時間だけ雨が上がり、月が出ていた。十三夜。おぼろながら仲秋の名月である。京浜東北線に揺られながら4人で再開を祝しあった。

諸君。いよいよ始まるぞ。 2006.9.6十三夜 T.M

●四川一貫
http://gourmet.yahoo.co.jp/0006635296/U0002087614/

2006年9月4日月曜日

涼しくなったので再開したい


古河のプロジェクトが終わった。
しばし休息したら、digitalJapanesqueシリーズにかかる。
なお、写真は8月31日、最終テストラン寸前の夕空。

2006年7月7日金曜日

'04.8.1[japanesque:00029] 愛してるからね





+++++++二年前の東京星菫派メーリングから
件名: [japanesque:00029] 愛してるからね
送信日時: 2004年 8月 1日 日曜日 4:15 AM
差出人: Toru Mashiko
宛先:東京星菫派


1992.1.13
アバコで“風”と“色”の音楽を録音するために
東京星菫派音楽顧問・菊池雅志さんに渡した1.13付けのメモの前書きから

 「目を閉じると 
  見えてくる
  色がある
  光がある
  水がある
  風がある
  音が
  空気が
  世界がある

  あなたが
  わたしが
  無数のわたしたちが
  いつの日か
  そこにいて
  そして
  いつまでも
  夢見つづける

  まだ
  誰も 
  見たことがない
  ニッポンの 
  美しい風景が
  ここにある」

だからどうしたというわけでもないが。
要するにおれはこいつをdigitalでやりたいわけです。
12年経って、さすがに髪が薄くなり
あるいはさっぱりと坊主になってしまっている
菊池さんや石塚さんをNHKで見ながら
そう思った。
寒風と雪まじりの臼田の電波望遠鏡の前で
月光仮面もどきの格好で震える彼らの熱演に
カラダが震えるような興奮を覚えたこと。
その足で熊野に走り、熊野古道で300inchスクリーンに
宙を飛んで届いた二人の雄姿を映し出し
そいつを緋毛氈に座ったフランス女とアメリカ男と
日本人男女が呆然と観ているという
わけのわからないエンディングにしたことなど
http://homepage.mac.com/torum_3/r1118/iMovieTheater180.html
猛烈に思い出されていく。


番組で最初に演奏された
「のちの思いに」は、
「光の日本」で試みた立原道造と福島泰樹という組み合わせを
あらためて福島泰樹独りの世界に再構成したもの。
http://homepage.mac.com/torum_3/r1118/iMovieTheater150.html
http://homepage.mac.com/torum_3/r1118/iMovieTheater151.html

二年前の大雨の夜、十年ぶりに曼荼羅でお会いしたとき
歓迎のつもりか、その旨を観客に紹介し、特別演奏をしてくれた。
予定外のことで、俺は恥ずかしくて下を向きっぱなしで
会場が暗いのを良いことに涙をぼろぼろこぼしてた。
http://homepage.mac.com/torum_3/love/iMovieTheater552.html
http://homepage.mac.com/torum_3/love/iMovieTheater555.html

これからHD900を引っさげて
レガシーとコロムビアを同時に撮った
http://homepage.mac.com/torum_3/r1118/iMovieTheater181.html
あの東北に向かえるのだと考えると
センチメンタルになって眠れねえ。
お察しください。

なお、レガシーとコロムビアはほぼ同時に仕上げられ
そののちポイントディゾルブと称するようになったエフェクトと
映像デザイナーという言葉をひねり出した記念の年。
愛する山岡は、元祖小深田の愛弟子としてまだ初々しい青年でありました。
六本木TSPA編。
酔客の声と六本木の夜風がストレートに窓から出入りし
モニターにはドアの向こうで見守る郡山青年が番人のように映っていて
できたばかりのWAVEや青山ブックセンター六本木店が光り輝いた頃のこと。
おれはまだ39歳だった(添付の証拠写真↓)。


いやあなんつーか、葉月八月は懐古回顧で開けちやった。


ひさしぶりの東北ロケに興奮で眠れず
引き出しの奥から古いメモを引っ張り出し
あのときの気分を思い出してます。
その1992年1月13日に書かれた
「色と風 音楽とSEに関するメモ」の最後のページには
作曲の菊池雅志さん宛にこんなメモが書いてあった。


  エピローグ
  「もう春なんだね」
  ササヤンカ村からの風を受けながら、さようなら。
  これで、この巻と、全4巻のすべてが終わる。
  挿入詩no.8「はるのしなやかな挨拶」が
  やさしげに入る。
  哀しみも喜びも、こもごも溶け合った音楽が
  スタッフのクレジットの最後まで流れていく。
  聴いているすべての人が
  いつか辿り着いてみたいと
  思いたくなるような音楽が。


そして、最後のページに
「また、いつか、
こんな仕事で逢いたいね。
ササヤンカの村からの、
誘いの風が吹くその日まで、さようなら」
と、添えてある。

pioneerのneo花鳥風月をテストケースに
六月から本格スタートしたdigitalJapanesqueシリーズが
この最後のメモの永い余白の末の一行なのだ、と思います。




手書き絵本「女鬼」をお渡ししてから
さらに月日が過ぎたけど
すべてはつながっていると、あらためて言っておきたかった。

もう、3時間もすれば
東京駅の銀の鈴でみなさんとお会いすることになりますが。

ま、そんなところであります。ご静聴感謝じゃ。

   2004.8.1 朝 T.M

No.99 Light and the dark. 7.7

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撮影場所:犬吠埼、六本木、舘岩村湯の花、仙石原、田沢湖、上野、多摩川
音楽:“色の日本”エンディング前半部を仮あて


3月28日から今日まで丸100日経過。
約5年分のHD900素材の過半を総チェックしながら
できるだけ場所と時間を中心に荒編集してきた。
ほぼ一日一本の割で試みてきたことになる。
きりのいいところでNo.100とすることも考えたが
余地を残すつもりでNo.99にとどめた。
ここから先は、組み合わせと融合。
限度の無い深みへと向うことになる。
5年分の時間を甦らせるためにはじめたが
あとはただ、奔出させるばかりである。

étudeをこのNo.99 Light and the dark. 7.7で打ち止めとする。

        2006.7.7未明 T.M

2006年7月6日木曜日

No.98 ここではないどこかへⅡ 7.6

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撮影場所:奄美大島、犬吠埼、若草山、隅田川、多摩川、八幡平、仙石原、利根川、早坂高原
さてどこに行けるか。どこまで行けるか。流れる雲まかせである。行雲流水、である。
4年前の9月。京都の近くでロケのあい間に夕雲を撮り、DJシリーズの柱の一つに雲をターゲットとしたいと書いたことがある。「その雲のかなたへ」とタイトルを付けショートムービーをwebに置いた。仮あてした音楽は“追憶”。吐竜の滝ロケをDJシリーズの正式なスタートとしてから一ヶ月余りが過ぎた頃のこと。この夏から秋にかけ、弾みをつけたくて家庭用のSONYで雲や月をよく撮ってはwebにアップしていた。4年間。館岩のF900テスト撮影から5年間。遠くまで来たのだとは、思う。止まる気などさらさらないが、100日近くの間に、100タイトル近くつないでみて、さすがに感慨深いものもあり。気持ちを記しておくため4年前には“The way we were.”
Gladys&Knight&The Pipsを添えた。それから4年経過し、撮り集めた雲のほんの一部をまとめたNo.98にはハワイ・マウナケアロケの帰りに現地の土産物屋で入手したコンテンポラリーハワイアンから“Somewhere Over The Rainbow/What A Wonderful World”IsraelKamakawiwo'oleを仮当てしておく。




湯治部webメインページの挨拶より引用++++++++++++++++++++++++++

  東京星菫派敬白。2004.2.29
  ある日 ふと手を止めて空を見あげる
  真っ青な空に白い雲が浮かんでいる
  雲は姿を変えながら 連なる山のかなたへと流れている
  足もとには たんぽぽの綿帽子がそよいでいる
  さわりと風が吹くと 綿帽子は身をよじり
  ふわりと真っ青な空に旅立つ
  たとえば それがすべてのはじまりだ

  飢えを満たし 日々を潤すためだけにある
  幾千もの夜と幾万もの昼の 果てしない繰り返しの どこかで
  ある日 人はふと空を見上げて想うことになる

  もしかしたらどこかに はるかかなたの異境の地に
  異なる時間の流れる場所に
  いまあるすべてのこと以外にも
  心踊らせ浮き立つような 何かがあるかもしれない…

  そして人はある日 かりたてられる想いにその身をあずけ
  はるかかなたへの一歩を踏みだす
  ここではないどこかへ、と。

  [何も願わず何も語らず我と我が貧しき夢と君のほかには]
  福島泰樹のこの歌の世界を
  この世の風と光と空気と水が織りなすアラベスクとして、
  さみしさを抱え込んだり切なさに涙ぐんでいる人を慰謝できたら…。
  元気と勇気の素のひとかけらとなれたら。

  すこし照れるが、それが東京星菫派の願いである。

2006年7月5日水曜日

No.97 きみのほかにはⅡ 7.5

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撮影場所:奈良若草山、京都鞍馬、古河、多摩川、奄美
音楽:“光の日本”エンディング前半から仮あて

沈む月を二日月から満月まで。
“きみのほかには”パートⅡとする。

No.96 crescent night 7.5

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撮影場所:奈良県若草山山頂
音楽:東京星菫派顧問菊池雅志“月光”を仮あて

一年前の七月五日は、奄美にいたのだ。
新月の頃で、夜になると宿のまわりの空は濃い闇とむせるような熱気に包まれていた。
奈良若草の頂で撮った鎌のように細い二日月をつないでいると
灼熱と静寂と2つの時間が溶け合っていく。
一年が過ぎたのだなと、誰にというわけでもないが乾杯したくなった。
     2006.7.5未明 T.M


++++++++一年前のMLから+++++++++++++++++++++++++++++++++
Re: [japanesque:00230] パラダイス、である。

深夜モードを通り越して夜が明けてしまった。
荒編したものをDVDに落とし、
たったいまテレビで見たところ。
「イヤイヤ詰めた」と、
さっき書いたが、豹変した。
取り消しておきたい。
あっちもいいが、こっちはもっといい。


「極上至極な楽」と企画書に書いたが
south paradiseは、そのままの一本となった。
ある日、流れる雲を見上げ
ここではないどこかへ…
と思い立った男あるいは女が向うのは
あふれるような生命力がみなぎる南、である。はず。

なぜなら、つかれたいのちは
いのちによってなぐさめられ
励まされるほかないのだから。

で、男あるいは女は、南へ向う。
そして46億年と出会うのだ。
それは水と樹木。
いいかえれば細胞の源と酸素の供給源。
この二つが可能な限りあるべき姿で
つまりpureな状態で維持されている場所。
ひとは、水でできている。
いや、はるか昔、彗星によって運ばれた水の粒子が
この過剰なほどいのちあふれる星の起源だったという。
奄美をひらけば「あまみ」。天の水と読めるから
というのはちと強引だけどね。
あそこには本質的に
つかれたいのちを慰謝してくれる
濃密でpureなものがあるのだと思う。

雲を見て南に誘われた
男あるいは女=わたしあるいはあなた=わたしたちは
そのsouthで水と空気と樹木にふれることで

もしかしたら女あるいは男に出会うことで
自分の中に秘められた可能性=想像力=夢見る力と
いつか再会することになる。はずです。そうなればいい…

5分足らずで、と思っていたが
見直して、そういうことが暗喩できている、
と感じられた。



おとなしい感じの真っ白な服をまとって南に向った
男あるいは女は やがて
あざやかなオレンジ色の服を着たもうひとりの自分と出会う。
その赤い服をまとって南で過ごすのは、いわば夢の時間。

太古の家=夢の跡を目にし
あざやかな花=生きている夢を手にし
息苦しいほどオゾンが充満した森=明日の夢に遊び


すべてのいのちの源となった海辺で再び真っ白な服に戻る。
しかしその服は潮風にあおられ荒布のようにはためいている。
風に布をなびかせて、男あるいは女は昂然と顔を上げて
波うちぎわを歩いていく。帰るべき場所に向っていく。
目を上げた先には巨大なオレンジ色の夕日が燃えている。


慰謝と再生。
これが極上至極なリゾートライフの本質であります。
疲れていることを自覚できようとできなかろうと
ひとは根源的に、なぐさめられ力づけられることを望みます。
生きていることは愉しいことだ、と囁かれます。
南に向うとは、そういうことなんだね。
だってひとは南からやって来たのだから。

さて、なんでPDPなんだ?
ま、いいじゃん。
South paradiseをpurevisionで見たら
そりゃ一目瞭然。眼からウロコだもの。

2006年7月4日火曜日

No.95 東京月光 7.4

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撮影場所:東京多摩川
音楽:東京星菫派顧問菊池雅志“月光”を仮あて

2006年7月2日日曜日

唐突だが、六本木でむじな発見7.2



TSPの六本木地下スタジオで編集をするようになって十数年になる。そのかん、年に数十日は出入りをしていたはずだけど、地下への階段折口の真ん前のバーの入り口に、むじなの彫刻が置かれていることを一度も気づくことが無かった。たまたま早く来過ぎ、編集マンが来てスタジオを開けてくれるのを表で待っているときに、気づいた。むじなである。須賀川郊外の“むじな森”をこよなく愛す俺としては、まことにうかつであったなと、後悔&反省しながらアタマと腹を撫でて詫びた。こんど“おつな寿司”の柚子稲荷でもお供えしたい。もうすぐ七夕。須賀川むじなの森で未来博覧会が開幕して5年になる。東京、雨。 スタジオにて T.M

2006年6月29日木曜日

90日、3ヶ月。90余本。

3月の28日に1本目を荒編してから今夜で丸3ヶ月となつた。番外編2タイトルを入れ、96タイトルつないだことになる。春の盛りから初夏にかけて、3ヶ月もの間取り組みつづけることができたこと自体、奇蹟のようなものだとも言える。この時点では一銭にもならない試みだけど、ほとんど取り憑かれたような気分で没頭することができた。仕事をするようになって二十年近くになるが、こんな時間の使い方をしたのは、いやできたのははじめてのこと。東京の片隅で、ほとんど山籠りのような思いで3ヶ月を過ごせた。誰に感謝をするというわけでもないが、先へ進め、と誰かに背中を押されつづけてきたような奇妙な気分もある。たまった仕事にメドがついたら、“福島泰樹挽歌集”から端緒を切ってみようか。拠って立つ場所に、まずは敬意をこめて…。

2006年6月28日水曜日

No.94 only you 6.28

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撮影場所:上野公園
2002年4月撮影
音楽は東京星菫派音楽顧問菊池雅志の“月”を仮あて


撮影後、六本木“れん”で晩飯を食べていたら撮影部が続々顔を出した。
なつかしく盛り上がる。気分がいいので四年前の夜桜をつないでみた。
ドイツから戻ったばかりの有本と19日ぶりに会った。
この前会ったのはやはり“れん”の前の通りで
その夜は明日からドイツです、と言い走り去っていった。
長岡、明日からブルターニュロケ10日。

2006年6月27日火曜日

2006年6月26日月曜日

No.92 voices in forest 6.26

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撮影場所:玉原高原ブナ平
2006.6.21夏至撮影

●セミ/出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/蝉
熱帯や亜熱帯の森林地帯に分布の中心を持つが、一部は冷帯の森林や草原に分布するものもいる。約3000種が知られており、テイオウゼミのような翅端までが130mmくらいの巨大なものから、イワサキクサゼミのように20mm程度のものまでいる。

日本の場合、成虫が出現するのはおもに夏だが、ハルゼミのように春に出現するもの、チョウセンケナガニイニイのように秋に出現するものもいる。数週間の成虫期間に太陽の下で精一杯生き、子孫を残し死んでいく姿は古来より感動と無常観を感じさせてやまない昆虫である。しかし幼虫として地下で生活する期間を含めると一生は3-17年(アブラゼミは4-5年)ほどと長く、短命どころか全体の寿命は昆虫類中上位である。

オス成虫の腹腔内には音を出す発音筋と発音膜、音を大きくする共鳴室、腹弁などの発音器官が発達し、鳴いてメスを呼ぶ。また、外敵に捕獲されたときにも鳴く。気管の拡大によって生じた共鳴室は腹部の大きな空間を占め、鳴き声の大きな中型種であるヒグラシやヒメハルゼミなどでは腹部を透かして見るとほとんど空洞に見えるほどである。いっぽう、メス成虫の腹腔内は大きな卵巣で満たされ、尾部には硬い産卵管が発達する。

鳴き声は種類によって大きく違い、種類を判別する有効な手がかりとなる。鳴く時間も種類によって異なり、クマゼミは午前中、アブラゼミやツクツクボウシは午後、ヒグラシは朝夕、ニイニイゼミは1日中などである。夏の昆虫とはいえ真昼の暑い時間帯に鳴くセミは少なく、朝か夕方のほうが居場所が分かりやすい。

No.91 森の母 6.26

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撮影場所:玉原高原ブナ平
2006.6.21夏至撮影

ブナ属には、日本産のイヌブナのほか、ヨーロッパブナ、アメリカブナ、タイワンブナなど10種以上知られている。かつてヨーロッパ文明をはぐくみ、「森の母」と尊ばれたブナの広大な自然林も、今日では牧畜や農耕や植林のため、その大半が失われてしまった。(C)小学館

No.90 early in summer. 6.26

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撮影場所:玉原高原ブナ平
2006.6.21夏至撮影


●セミ/出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/蝉
文芸
源氏物語空蝉の巻
俳句
閑さや 岩に染み入る蝉の声 (松尾芭蕉)
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音楽
『蝉の曲』(胡弓楽曲・箏曲) 名古屋、京都で活躍した盲人音楽家吉沢検校が天保頃作曲。馬場守信作詞。胡弓の本曲として有名な曲。蝉の声に寄せて、夏の終わりに恋の終わりを予感する心情をうたっている曲。手事 (てごと - 楽器だけの長い間奏部) では胡弓が蝉の声を描写する美しい部分がある。 吉沢検校は天才音楽家として評判が高く、そのため同僚の音楽家たちに妬まれた。尾張徳川家の雛の節句でのこの曲の演奏のおり、箏の伴奏を同僚たちに頼んだが誰も受けてくれない。仕方なく胡弓を独奏したが、それが大変に素晴らしく、並みいる人々みな感じ入ったという。
『ひぐらし』(尺八、胡弓、箏三重奏曲) 大正9年、宮城道雄作曲。秋近い夏の夕暮れ時、ヒグラシの声がひとしきり聴こえるうちに、夕闇が次第に迫ってくる感じを描写した曲。
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その他

イソップ童話の有名な「アリとキリギリス」の話は、本来の南欧である地中海沿岸のギリシアで編纂された原話では「アリとセミ」の話であった。セミは元来、熱帯系の昆虫で、日本より緯度が高いヨーロッパや北アメリカではセミの種類も少なく、小型で迫力がないので、知名度が低い。そのため、イギリスから北アメリカのジュウシチネンゼミ分布地に移民した人々がこのセミの成虫の大量出現に遭遇したとき、驚いた移民達はいったいどういう昆虫なのか理解できず、聖書を紐解き、旧約聖書の出エジプト記などに記された蝗害の記事にこの現象を当てはめ、本来の英語でセミを示す cicada ではなく、蝗を意味する locust の語を当てた。そのため、アメリカ英語ではセミを言い表すときに、 cicada と locust の両方の語を使う慣習が生じた。
明治維新の時、日本にやってきたヨーロッパ人はイタリアや南仏などの地中海沿岸地域出身者を除くとセミを知らないものが多く、「なぜ木が鳴くのか」と尋ねたものもいたという。現在でも、日本のドラマを欧米に出すとき、夏の場面ではセミの声を消して送るという。日本ではいかにも暑い盛りのBGMと感じられるが、あちらでは妙なノイズが乗っていると思われる場合が多いという。
新潟県ではセミの幼虫または、その抜け殻を特に「ワンザ」と呼び成虫と区別する。

No.89 春蝉しぐれ 6.26

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撮影場所:玉原高原ブナ平
2006.6.21夏至撮影

以下http://ja.wikipedia.org/wiki/蝉より引用
西日本と東日本、低地と山地、都市部と森林では生息するセミがちがう。また、南西諸島や小笠原諸島にはそれぞれ固有種が生息しており、日本本土のものと似ていても鳴き声などがちがう。全部で30種あまりが知られているが、チッチゼミCicadetta radiatorエゾチッチゼミCicadetta yezoensisクロイワゼミBaeturia kuroiwaeの3種はチッチゼミ亜科Tibicininae、それ以外はセミ亜科Cicadoidaeに属する。なお、鳴き声は文字で表現するのが難しく、同じ種類でも人によって聞きなしが異なることに注意。

ハルゼミ Terpnosia vacua
翅端まで3.5cmほどのセミで、マツ林にすむ。名のとおり成虫は4月中旬ころから入梅のころまでに発生する。ゆっくりと「ジーッ・ジーッ…」と鳴く。
ヒメハルゼミ Euterpnosia chibensis
翅端まで3.5cmほどのセミで、西日本の照葉樹林に分布する。オスは「ギーオ、ギーオ…」と鳴くが、集団で一斉に鳴く習性がある。
イワサキクサゼミ Mogannia minuta
翅端まで2cmほどしかなく、鳴くセミとしては日本最小。沖縄本島から八重山諸島にかけて分布する。成虫はサトウキビ畑やススキの茂みに発生し、4月ころには「ジー」と鳴き始める。サトウキビの害虫である。
ニイニイゼミ Platypleura kaempferi
翅端まで3-4cmほどの小型のセミ。翅と体は褐色のまだらもようで、からだにうすく粉を吹く。他のセミより一足早く、6月下旬には成虫が発生する。サクラの木に多い。ぬけがらは他のものより小さくて丸っこく、全身に泥をかぶっているので他の種類と区別できる。
ヒグラシ Tanna japonensis
翅端まで4.5-5cmほどで、ツクツクボウシよりすこし大きく、からだは茶色っぽい。ニイニイゼミと同じく6月下旬には鳴き始める。ヒノキやスギの林に生息し、朝夕の薄暗い時間帯に「カナカナカナ…」という高い美しい声で鳴く。なおこのセミの寄生虫としてセミヤドリガがあり、成虫の腹に綿くずに包まれたようなウジ虫型のガの幼虫が1匹~数匹くっついていることがある。
ツクツクボウシ Meimuna opalifera
翅端まで4.5cmほど。ヒグラシより小さく、からだは緑と黒のもようがある。ヒノキやクヌギ、カキ、アカメガシワなどいろいろな木に止まる。夏の終わりごろによく鳴くようになり、宿題に追われる子どもたちのBGMとなる。名前通りの「ツクツクボーシ!ツクツクボーシ!…」という鳴き声はよく知られているが、鳴いているオスのそばで別のオスが「ジイイイイ!」という声を挙げていることもある。
ミンミンゼミ Oncotympana maculaticollis
翅端まで6cmほどで、アブラゼミと同じくらいの大きさ。体は緑と黒のしま模様で翅は透明。東日本では平地の森林に生息するが、西日本ではやや標高が高い山地に生息している。「ミーンミンミンミンミー…」という鳴き声はよく知られている。
エゾゼミ Tibicen japonicus
翅端まで7cmほどあり、クマゼミと同じくらい大型のセミ。木の幹に逆さまにとまる。鳴き声は「ギー」と聞こえる。エゾゼミはマツ、スギなどの林に生息するが、似ているコエゾゼミ Tibicen bihamatusやアカエゾゼミ Tibicen flammatusはブナ林に生息している。
アブラゼミ Graptopsaltria nigrofuscata
翅端まで6cmほどある中型のセミ。ふつうセミの翅は透明だが、このセミは不透明な褐色である。特に集まる木はなくいろいろな木に止まり、都市公園などにもよく生息する。午後の日が傾きかけた時間帯によく鳴き、「ジジジジジ…」という鳴き声は夏の暑さを増幅するような響きがある。
クマゼミ Cryptotympana fucialis
翅端まで7cmほどもある大型のセミ。おもに西日本の平地に分布するが、近年は東日本でも分布を広げており、地球温暖化の影響ともいわれている。からだは黒く、頭部と胸部が幅広い。朝や雨上がりの日差しが強くなる時間帯に腹をふるわせながら「シャンシャンシャンシャン…」と大声で鳴く。

2006年6月24日土曜日

No.88 森の気配6.24

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撮影場所:玉原高原ブナ平
2006.6.21夏至撮影

はる‐ぜみ【春蝉】

セミ科の昆虫。はねの端まで全長三五ミリメートル内外。形はヒグラシに似て、小さい。体は黒色ないし黒褐色で、雄の腹部には金毛がある。はねは透明で、数個の暗色点がある。日本に産するセミのうち最も早く四〜六月に現れる。松林に多いことからマツゼミともいう。日本の特産種で本州・四国・九州の暖地に分布。春のせみ。《季・春》

2006年6月21日水曜日

No.87What A Wonderful World6.21

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撮影場所:利根川土手
仮当てした音楽/風のササヤンカ村他

+++++++++古いwebメモから++++++++++++++++++++++++++++++++++
●けやきのフラッシュ
at 2001 11/03

駅まで歩いて、雨足の強さに気分が萎えた。Uターンし、オフィスに。いつも夜にうろつく公園の木々の葉がずいぶんと落ちてしまっていることに気づく。絵画館前の並木はどうなっているか、と気になった。
氷雨、本降り。いつもワタナベのクルマで動くので傘をさして街を歩くのもひさしぶりだ。タバコを二本、ケヤキの下で灰にした。もっとずっと小さい子供のような背丈のケヤキのそばでこんな本降りの夕にタバコを吸っていたシーンがフラッシュした。
須賀川。むじなの森。ジ・アース館の前の湖のほとり。小さなケヤキが植えられていた。あのケヤキのそばに立ちすくんで、あるいは力つきて腰をおろし、何百本のタバコを灰にしたことか。雷。嵐。大雨。台風。夜霧。夕日。十六夜。虹。ヒグラシ。カエル。鈴虫。白い雲。青い空。風。夜のゴンドラ。森の滴と名づけられた小さな三千本の灯。提灯の灯影。小松明の群れ。焔。水。水。水。水。おれのみずの日々。切迫。焦眉。灼熱。焦燥。奔流。激情。鎮静することのない、静まることのないこわばった時間。その熱い塊。混迷のピークで出あった、魂を抜き取られるような舘岩村・湯の花の月の光。足元でふみつけられそうだった小指の先ほどの紫露草が放った夏の光。
けっきょく、街には出ずに、オフィスに。窓を開け、氷雨を眺めながらハワイアンを聴いている。考えればおかしな組み合わせだが、意外と似合っている、ように思う。
《Somewhere Over The Rainbow/What A Wonderful World》と名づけられた不思議な趣のある曲をリピートしながら。今日は、なんだか誰とも会いたくない。誰の声も聴きたくない。
ワタナベは明日あたり廃虚となったむじなの森に行ってみるらしい。こんな夕暮れもいいじゃねえか。

2006年6月18日日曜日

No.86 湖畔の月光6.18

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撮影場所:八幡平山頂、田沢湖
仮あて音楽:菊池雅志「月光」

2006年6月17日土曜日

No.85 たったひとりの女のために6.17

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再開。
新しい素材からとも思ったが、気合いを漲らせるために情から入る。
素材撮影:田沢湖畔トンボのホテル
仮あて音源:1991光の日本エンディング前半

タイトルは福島さんの

「たったひとりの女のために赤々と灯しつづけてきたるカンテラ」

から借用。
どこにでもある見逃せばただ過ぎていくだけの光景が
ふと気づいてみれば、
その一瞬だけ存在する幻の女のように思えることもある。
ただの海じゃん。ふつーの空じゃん。夕日じゃん…
その通りなのだ。すべてはただの風景で
すべてはただの女で男で
いとしいひとでものでことでも、ある。
意味など、どこにもない。
そして意味は無限に、存在する。
表現されるるモノは
いつどんなときでも弱った心や痛んだ魂のためにだけ有用である。
明るく元気でなに不自由なく不安も抱えずに生きているとき
表現されるものは、ことごとく無用である。
想像は、不要である。ただひたすら生きることを愉しめばいい。
と、ぼくは思います。
Japanesqueって何?
という問いに、答えるとすればそういうことかな。

ちなみに福島さんはこんな歌も書いている。

「風孕み落ちゆくまでの一瞬をわれらはわれを愛すほかなく」風に献ずより


以下引用++++++++++++++++++++++++++++++++
件名: [yumekoujou:00075] 第1回目のロケハン / ロケ報告
送信日時: 2004年 8月 4日 水曜日 0:28 AM
差出人: Toru Mashiko
成功を確信しつつ、ロケハン/ロケぶじに戻りました。
一昨日、炎天下の川に入って撮影するスタッフの下流で
素裸になり水ごりをしロケ成功祈願をひとり敢行した、マシコです。
(じつは、あまりの暑さというか熱さに水浴びをしていた。
二十年ぶりぐらいかな、川泳ぎをしたのは)
本番は9日に東京を出発。10日、11日、12日と決定しました。
素晴らしいシーンになると思います。

なお1日から3日までのロケハン/ロケでは
深山に昇る満月と山間の湖に浮かぶ十六夜の月、ニケ
山頂と湖の夕日と夕焼け、ニケ
見たらそこで泳ぎたくなるような美しい流れの川、数ヶ
見たらそこでこころとカラダを休めたくなるような森の湖畔、一ヶ
思わず吸い込まれそうになるふしぎな水の流れ、数ヶ
「夏ッ!」と叫びたくなるような緑の草原と真っ青な空と白い雲 数ヶ
背丈より高い葭原を吹きすぎる夏の風と夏雲の影、一ヶ
…など、
「おっ、これぞまさしく夏休み」と膝を打ちたくなるような
愛と正義に満ちた凛々しい「日本の夏休み」原風景を映像に収めました。

この正調・日本の夏が、
どんなふうに作品に取り入れられていくことになるか
お盆前には、最初の答えが出るはず。
制作スタッフは、9日の東京出発に向けて
さっそく明日から準備に入りますので、お盆休み明けの
吉報第1弾をお楽しみに…

2006年6月11日日曜日

風に吹かれる牡丹



   そのひとは夕べの鐘のやるせない哀傷 風に吹かれる牡丹
     -わがひとに、もしくは藤純子に-福島泰樹“晩秋挽歌”


吉祥寺から戻った渡辺にクルマの中で、これだけでも見ませんかと渡されたSONY-HDVの小さな液晶にあらわれた福島泰樹のアップの冒頭で絶叫していたのが、この歌だった。若いピアニスト川口の演奏を観たくてなんとか曼荼羅に同行したかったが、頭に入れないと間に合いそうもない資料を前にあきらめた。様子を渡辺から聞ければと思ってはいたが、ムービーをまわしてきてくれるとは予想していなかった。渡辺は、川口が出たシーンを見せてくれようとしたのだが、たまたま画面に映ったのが冒頭の一首だったのだ。晩秋挽歌に載った-わがひとに、もしくは藤純子に-その二の第一首。耳にした途端、稲妻にあったような気分になった。はじめて福島さんの歌集を買ったのが“晩秋挽歌”だった。まだ妻に寄食して川べりのアパートで暮らしていた二十代の真ん中の頃。塚本邦雄の“詞華栄頌”で福島泰樹を知ってから、はじめて手に入れた記念の一冊。色褪せた“詞華栄頌”には加藤賢明から届いた村上一郎の自死について書かれた75年3月31日の消印のあるハガキとカラカラに乾いたもみじが二葉はさまれていた。たまたまゆうべ、急に藤純子の緋牡丹博徒が観たくなり、DVDを二枚続けて観たばかりだった。いずれも加藤泰の撮ったもの。「花札勝負/昭和44年2月公開」と「お竜参上/昭和45年3月公開」。匂うように美しく凛々しく切なかった“お竜さん”をときどき無性に観たくなる。夕べが、そんな夜だった。どうということのない符合にすぎないとはいえ、感じるところもあり。


 機動隊よそこに尿するなかれ昨日おれがオフェリア抱いたところ

はじめて読んだ福島泰樹の歌である。塚本邦雄の“詞華栄頌”74p「奔馬-福島泰樹」とタイトルのある2ページばかりのオマージュに、この歌が引かれていた。そして塚本はこんなふうにしめくくる。

「これらの作品の背後には哄笑がひびいている。世界の悲劇を己が悲劇としてではなく己が小世界の悲喜劇を日本の悲劇であるかに深刻化して死ぬの生きるのと騒ぐ事大主義など泰樹には全く無い。唇を噛んだ歯で酒瓶の栓を剥ぎ、法華三昧会をするくらいの器量がある。その野放図な生命力と、昨日抱いたオフェリアの屍骸に泰山木の一花置いて口笛と共に去る諧謔あってこその[青春]であろう。あってほしい翹望が、それこそ私の泰樹を選んだ不条理の源ではなかったか」

と。

2006年6月8日木曜日

break順延

第1にたまっていた小説を読みたかった。これはすんなり。第2にジャパネスク以外に実務としての仕事に集中してみたかった。こちらはそれなりに過ぎるかと、拍子抜けしかかったが、伏兵あり。イメージサイエンスの若いプロデューサーからの唐突な依頼が、その伏兵となった。依頼内容より、むしろ依頼のスタイルに感じるものがあった。本腰入れる気分にさせられた。このあいだCの件で会ったOもなかなかよかったし、こんどのWも輪をかけて骨がありそうだ。週末前までブレークと考えていたが、週明けまで延長。週末に全力をあげてみたい。ため息つかせてやりたい。そういう気分にさせられる真摯さがあった。

2006年6月4日日曜日

break


ヒートアップしてきたので、しばしブレークとします。
ほぼ寝ても醒めても状態で、かなりきつくなってきた。
あとはバラバラに撮った素材を概観すればOK。かな。
はるばる五年ともたったの五年とも…

予想通りの“宝の山”であったことは、しっかり確認できた。
しかもなお、この“宝”は増殖中でもある。
ちょっと休まないと、パンクしそうなので

No.84 な、ら、く。6.4

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06.6.4荒編 
place;吹割れの滝

奈落越え撮影直後のwebメモから++++++++++++++++++++++
2005 07/29 01:01「奄美越え奈落越え新宿砂漠」
出がけにメールをチェックしたら嬉しいメールが一本。古河の田中さんから。続けて空環研究所の田中さんからも。この二人の田中さんのメールで元気が出た。ウナギを喰ってから広尾の地下へ。陰影のある音世界ができあがりつつあった。作業を見ながら、ナレーションに手を入れる。青木菜なさんが来たので相談。録りながら様子を見ることにし、本番。ひさしぶりに気持ちのいいナレーション録りを経験。うんざりするような改悪ゼロは何年ぶりのことか。チェックを兼ね、青木さんと通しで見た。笑って欲しいところで反応してくれるのを斜め後ろから見ながらホッとした。青木さんは、しかし凄いな。いままでチャレンジしなかった世界の可能性を感じさせてくれる。合う合わないのとてもはっきりしたキャラクターだけに、貴重だ。榊原さん以来の幸運なのかもしれない。さらに夜になって澤本さんからメール。滝の撮影の日、おれが奈落越えなどとばかり書いていたから心配になったらしく現場を見にきていたらしい。そのときの写真が貼付されていて、そのポイントはおれたちが狙った場所とたがわなかった。ちよっとしんみりさせられた。さて、ここからは砂漠の時間。新宿砂漠の時間となる。

2005 07/26 01:45「この場を借りて、一本締めといきます。」
ましこです。
夏の名残の奈落越え、勝利しました。
あんな奔放な水のありようを、
まだ誰も見たことがない。
25日午前5時、雨 午後5時、雨
この12時間で、奈落を越えたよ。
あんな場所にクレーンを据えた特機部のくそ度胸と
そこまでして撮ることにこだわった撮影部と
奈落にサラウンドマイクを突っ込んだ突撃録音隊と
連続徹夜に目の下のクマを倍増させながら
無理難題に応えつづけた若き美術部の美青年若林君と
押し寄せる観光客の波を最後までもめることなく捌ききった制作部と
トイレもない120段余の急階段の現場にもかかわらず
笑顔でがんばった29歳と9歳の母娘と
ヤマユリをあのがんばっている母娘の手に飾らせたいという
ヒゲ男ワタナベの申し出にワタシは見なかったコトにしましょうと答えた
利根町役場教育委員会のお目付け役人の
上州からっ風に育てられた大岡裁きと
降水確率、台風近接の予報をものともせず、
goの英断をくだした川田&相馬プロデューサーと
異常なまでの愛嬌とやけにでかい握り飯と魚肉ソーセージを届けてくれた
元美人の中年女将と番頭さんにも
愛をこめて感謝を捧げたい。
もちろん、はるか離れた奄美にあって
7号の北上を抑えてくれた畏友にも深謝。

みなさんのわけのわからない情熱と遊び心の勝利です。
ニッポンの“夏の水”を、ゲットしました。
ありがとう。そして、おつかれさまでした。
この場を借りて、一本締めといきます。
いょぉっ!

           2005.7.26 am1:30 T.M

2006年6月3日土曜日

No.83 sandstorm6.3

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06.6.3荒編 
place;奄美大島

去年のwebメモから+++++++++++++++++++++++++
2005 07/26 02:49「23/25」
7月1日のプランを書いたのは6月21日。7月4日-7日のプランを書いたのは6月23日。その夜、美瑛から奄美に変更。吹割りの滝下調べを決めたのは7月1日。滝の下見レポートを奄美で受け取ったのが7月6日。奄美を終わらせたのが、7月18日。dyneを終わらせたのが7月22日。7月25日のプランを書いたのはいつのことだったか。最終は7月23日。撮影のべ7日。編集のべ12日。MAVのべ4日。今日は7月25日夜。撮影&編集&MAVのべ23日間。これはけっこう激烈であったな。さらに7月は編集&MAVが2日控えている。たいした夏でもある。

2005 07/28 03:32「♪モドレナクテモモウイイノォ」
ひるまスタジオでとりこんだ天城越えをさっきからずっとリピートしている。まともに聴いたのは、じつは今夜がはじめてのことだが、こりゃ名曲だな。なんか昔の出来の良かった頃の仁侠映画を観ているようで、思わず涙がにじむ。そして奇妙な勇気というかやる気が出てくる感じもあり。フレーズとメロがまことによく調和しているので正しい簡潔な日本語を聴かされているようで思わず居住まいを正したくなる。モノを知らないということは不幸なことも多いが、思いがけない歓びもまたあり。己の無知も時に活きる。あの奄美の熱と湿気のなかで天城越えをもじって奄美越えと名づけたのは、単にハードな仕事をクリアしたいという程度だった。はず。だがさっきから30回くらい聴き続けていると、また異なる風景が現れてもくるのだ。♪モドレナクテモモウイイノォクラクラモエルチヲハッテェなんかすげえ歌があったのだな、とあらためて。男と女のことはともかく、戻れなくてももういいの、と今夜のおれはそういう心境ではある。まいったな。奄美ならぬ天城越え。今日は、はまった。アナタトォコエタァイィアマギィゴォエェである。もう知らんぞ。

No.82 a virgin forest.6.3

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06.6.3荒編 
place;奄美大島

No.81 green island6.3

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06.6.3荒編 
place;奄美大島

No.80 うみゆかば6.3

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06.6.3荒編 
place;犬吠埼

三年前のwebメモから
2003 03/30 02:06「はじめて海に出あったとしよう」
たとえばぼくは深い森のある山あいに暮らしている。
生まれてからまだいちども海というものをみたことがない。
ある日、話に聞く、海というものが
どうしても見たくなり、
いくつもの山や丘や川や平野を越えて海に向かった。
季節はきっと、春。
桜が咲いて、大地が緑になって
空に鳥たちが飛びかい
月がしみじみときれいな夜がつづくころ。
ぼくははじめて見る海に向かったのだ。

そして、ついに
海と出会う。

そのときぼくはどんなコトバをもらすのだろうか。


最初に感じるのはきっと際限のない明るさ
同時にまぶたを突き刺すようなまぶしさ
明るさとまぶしさに目がなれた頃
はてしない水平線を前に無限の広さを感じ
そして最後にわけもなくうれしくなって笑いをこぼす。

自分の中にありつづける海のイメージは
そういうふうなものらしい。
そして、その海は
つねにひらがなで飾られている。


なんだかガキのようだが。
そんな気がしている。

webの観光ナビhttp://www.city.choshi.chiba.jp/kanko/sa_shinkou/guide/inubou/inubou.htmlから
豪快な犬吠埼の突端にそそり立つ白亜の塔、犬吠埼灯台は1874(明治7)年英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの設計により造られた西洋型第一等灯台で、日本で24番目に点灯されました。
レンガ造りの建築物としては日本一の高塔(31.57m)として、また第一等4面レンズを通して200万カンデラの光を発しており、名実ともに日本一の灯台です。99段のらせん階段を昇った眺望は太平洋の孤島に身をおいた錯覚を覚えるほど雄大です。
平成10年には「世界の歴史的灯台100選」に選ばれました。