2011年11月8日火曜日

離れることが寂しい町は、そのひとにとってのふるさとなのだと思う  11.11.18

重松清「熱球」より

《あなたは周防に帰って優柔不断になったわけじゃないんだな、と気づきました。
優しくなったんだと思います。照れるでしょ。
でも、優しくなったから、つ­らくなるってあるような気がします。
優しいひとほど途方に暮れてたたずむことが多いんじゃないかな、って。
だって、「優しい」という字は、ひとが憂うって書くんだものね。
­かく言う私も、引っ越しの荷造りをしながら、
なんだか優しい気持ちで日本のことを思っています。
日本に帰って、去年の夏までの生活に戻っても、
たぶんいろいろなことに対し­ て優しくなれるような気がするのです。不思議です。 
ボストンに来たばかりの頃は、こっちの生活と比べるたびに
日本の嫌なところを思いだしてムカムカして いたのに。  
「帰る」せいなのかもしれません。
家でもなんでもそうだけど、ひとは「帰ってくる」と優しくなるのでしょうか。  
「帰る」ためには、いったん「出て行く」ことが必要です。 
あなたは、周防から出て行ったから、帰ることができた。 
私も、ボストンへ出て行ったから、 日本に帰ることができる。
そして、みんなで、東京に帰りましょう。周防にも「帰る」、東京にも「帰る」。  


離れることが寂しい町は、そのひとにとってのふるさとなのだと思う。》






たとえばこんなふうに
“思い出のその場所に”帰る日も、ある。
http://www.youtube.com/watch?v=L9VCK0tzse4


つどい、つながり、たしかめる。
二度とない“時間”だからこそ
いとおしく、そしてせつなく、あまい。
“永遠”は、ほんとうになにげない
ごくあたりまえの
記憶に留まることがないような
そんな時間の断片の中に
ふりかえるときらきらときらめいている。
http://www.youtube.com/watch?v=8xLXdv4Ozpw


だからわたしたちは
その二度とない
なんでもなかったはずの“時間”を
ときにむしょうに
くるおしいまでに
懐かしむ。
ひとは明日にむかって
生をいとなむ生きものだから。
未見の明日にむかってしか
生きられない生きものだから。
過ぎた“時間”は
いつでもどこでもなんどでも
くりかえし起きるような
また、こんな瞬間があるよ、
と思っていたはずの
ほんとうにちっぽけで
ドラマのかけらすらないような
まいにちの一瞬の中に
土の中のダイヤモンドみたいに
なげだされている。はず。
http://www.youtube.com/watch?v=-9sBJv4LXkA


ふるさと。古里。故郷。
ひとはだれもこころにふるさとをもつ。
父や母や山や森や川や海や鳥や虫や蝶のいる
じぶんが生まれ、呼吸をした
不安もおそれも戸惑いもなかった時間。
その郷里の光と空気を細胞の片隅にきざみ
ときに忘れながら、いまをかさねていくのだ。
めをとじたときに想いうかべる風景と時間が
わたしたちにとっての“ふるさと”だとしたら
あなたにとって、それは過去にあるのか
いま現在の、今日そのものに、あるのか
いずれにしてもそれらの想いは
器としての家にとどめられていくことになる。
家は、住まいとは、だからあなただ。
あなたそのものなのだ。
http://www.youtube.com/watch?v=U-5JH6hk70s