2006年5月27日土曜日

No.64 寒露5.27

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‘06.5.27荒編 no.06/64
place;古河/庭の池
音楽は1991版Japanesque“水”より

2006年5月26日金曜日

ポリフォニー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポリフォニーとは、複数の異なる動きの声部が協和しあって進行する音楽のこと。 音楽史上では中世西洋音楽期~ルネサンス期にかけてもっとも盛んに行われた。通常は、それぞれの声部が独立した古典派以降の「モノフニー」の対義語として用いるが、 いくつもの声部から成り立つ「ホモフォニー」に対して使われることもある。
ポリフォニーは「ホモフォニー」のように主旋律・伴奏といった区切りがなく、 どの声部もほぼ同等の比重で絡み合う。 ポリフォニーでもハーモニーは生まれえるが、ポリフォニーは各声部の流れに重点をおいているので、 その結果従属的に生まれたものといえる。ただし、1つのメロディ(またはパート)を複数で奏する場合に生じる自然な「ずれ」は例外とされ、 これは「ヘテロフォニー」とよばれる。
広義では以上の通りだが、 西洋音楽史ではもっと狭義の意味で用いられ、 たとえ複数の声部であってもリズムが別の動きでなければ ポリフォニーとは呼ばないとすることが多く、この意味で、「対位法」と重複する部分をもつ。
上で述べた「ホモフォニー」の対義語とするというのは、この狭義の意味のときである。

引用 polyphony
http://2style.net/misa/kogaku/polyphony.html

2本以上の旋律を同時に重ねる、多声音楽のひとつの形式です。 音楽史上では9〜10世紀ごろから表れはじめ、特にルネサンス時代——15世紀中頃から16世紀にかけては、このポリフォニー音楽の最盛期でした。
 
私たちが一般に耳にするクラシック音楽(バッハ以降の、18世紀から19世紀にかけての近代の音楽)が、同じ多声音楽でもホモフォニー(fomophony)と呼ばれ、最上部が主旋律として優位を保ち、下の諸声部は和音的な支えの役割を果たすのに対して、ポリフォニー(polyphony)では、それぞれの声部がすべて均等に、互角に絡み合い、全体の音の綾をなしていくもので、どの声部にも主従の関係はありません。従って、ポリフォニーでは各声部の流れに重点がおかれ、ハーモニーはその結果として、従属的に生じるとものと言えます。

もちろん、ポリフォニーとホモフォニーの区別は相対的なものですから、実際の音楽ではこの二つが適当に入り交じっているのが普通です。ただ、全体的の傾向から、ルネサンス期の音楽はポリフォニーの要素が強く、18世紀以降の音楽にはホモフォニーの傾向が著しいと言えるでしょう。


引用 「ポリフォニーについて」   96/04/30 01:34
http://members.jcom.home.ne.jp/tana-masa/rikutu/poli.html


ミハイル・バフチンによれば、ドストエフスキーの小説は、ポリフォニーで
あると言う。このポリフォニーは、本来は音楽用語であるらしく「多声音楽」
と訳されるものらしい(20世紀思想事典)。
バフチンによれば、ドストエフスキー以前の小説はモノローグであると言う。
このモノローグは「単旋律」と訳されている。

ポリフォニー的小説について、バフチンは次のように書いている。

ミハイル・バフチン「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)
第一章 ドストエフスキーのポリフォニー小説
    および従来の批評におけるその解釈より引用

 「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それ
  ぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ド
  ストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっ
  ていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単
  一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうでは
  なくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、
  各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込ま
  れてゆくのである」

 ドストエフスキーは一つの小説に、決っして統合される事のない様々の声と
意識を書いたと言う事。作者も主人公(複数)も他の登場人物も、皆、それぞ
れの声と意識、つまり「それぞれの世界」を持っていると言うのである。それ
らのいくつもの世界が、一つの小説の中に織り込まれているのだと言うのであ
る。重要なのは、それらの世界が「それぞれの世界を持った複数の対等な意識
が、各自の独立性を保ったまま」であると言う事である。つまり、作者の思想
のもとで統合されてあるような世界ではないと言う事なのだ。

 つまり、こういう事だ。モノローグ的小説と言うのは、ここで言われている
「複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界
の中で展開されてゆく」ような小説と言う事になる。この小説世界の特徴は、
作者の思想により決定される。作者自身の持つ思想か、そうではないかの問題
ではなく、作者が何らかの思想のもとに、人物、背景、事件、顛末、結末を用
意しているような小説と言う事である。これらの小説は言わば一つの結末に向
けて走る馬車のようなものである。巧みな御者の運転で、読者は御者の用意す
る目的地に向けて、様々の冒険の果てに連れていかれるのである。物語として
の小説は、この御者の腕一つで楽しかったり、楽しくなかったりすると言うの
は衆知の事である。これは物語の持つ面白さに直結する。

 ポリフォニー的小説は上の比喩で言えば、読者はめまぐるしく馬車を乗り継
いでいる状態と言う事になる。目的地も一つではない。それは読者に委ねられ
ている。例え、作者が結末らしきものを小説の最後に記そうが、それは読者の
結末と同じにはならない。もちろん、なっても構わないのだが。読者がどの御
者の腕が気にいったかの要素の方が強いのである。モノローグは作者自身が御
者であるが、ポリフォニーは登場人物のすべてが御者であると言っても構わな
いのである。物語的面白さは、ポリフォニーの場合、いくつも見い出せるのだ。

 しかし、小説は物語的な面白さだけではいけないらしい。つまり、時代を描
くと言う事である。その作者が現そうとする時代をどのように描くか、つまり
それが小説の一つの問題であるらしいのだ。ぼくは、最近まで、ずっと、小説
を物語としてのみ捉えていたので、このような視点は、まるっきり、欠落して
いたのである。人間、本は読むものである。それはともかくとして、一つの時
代を描こうとする場合、モノローグ的手法は、必然的に一つの時代に対する視
点を確立させていなければならない。それは、どのような思想を用いてであれ、
作者自身の用意する、時代に対する答えを提示しなければならないと言う事で
ある。つまりは、時代に対する作者の判断と言う事である。その判断を巡って、
登場人物たちが、葛藤したり、反目したり、相克したり、殴り合ったり、愛し
あったり、弁証法的に対話したり、殺し合ったり、妊娠したり、出産したり、
卒業したり、旅に出たり、わけもなく憂鬱になったり、嬉しかったり、悲しか
ったりするのである。

 もし、小説が、文学が科学であるとするならば、作品はその時代が正しく捉
えられているかで判断されるのだろうか。それとも、それはぼくの大いなる誤
解で、そうではない科学的分析と言うのがあるのだろうか。コントの「三状態
の法則」によれば、思考は三つの相で順次なされていると言う事で、すなわち、
神学的または仮構的な状態、形而上学的または抽象的な状態、科学的または実
証的な状態と言う事であり、文学が科学であるとするなら、この科学的または
実証的な状態と言うのは、どのようなものなのであるか。

 話しがそれてしまった。つまり、モノローグ的に時代を書くと言うのは(そ
れが科学的、実証的かの問題は別にして)、問題があるのである。目的を時代
を書くと言う事に限定して、作者側から方法的に考えると無理があるように思
うのである。それは選択の問題として作者に意識されるのではないか。どの立
場から書くかと言う事を作者は選択しなければならない。一つの時代がどのよ
うな時代であるかと言うのは、モノローグの場合、常に一つの断面を取り出す
と言う事でしか表現出来ないのである。取り出された断面は、作者の提示する
断面と言う事でしかなく、それが全的に時代を表現すると言う事は無理なのだ。
それが小説自体の持つ価値とは全く無関係に、モノローグ的小説の時代を表現
する事の限界である。仮に普遍的真実と言うものがあるとして、それをえぐり
だすようにして提出する小説が出て、初めてモノローグ的手法で時代を書いた、
と言う事になるのだ。

 ポリフォニーは、その限界を突き破るための手法である。作者は極力、選択
を行わない。時代に現われた思想、立場、生活レベル、職業意識、宗教観、そ
の他いろいろのものを、決して統合させることなく、小説上に展開させるので
ある。これはつまり新聞やワイドショー、ニュースショーの手法である。今ま
で、悲惨な事件を伝えていたその口で、しかも、顔つきまで一転にこやかに、
「さて、好天の日曜、各地の行楽地では‥‥」と始めるのである。
 そういえば、バフチンの本にドストエフスキーは新聞をいくつもとって熟読
して、友人たちに新聞を読むようにすすめていたと言う事が書いてある。

 もちろん、ポリフォニー的手法を創造したとされるドストエフスキーの小説
が新聞やワイドショーであると言っているのではない。原理的には同じだと言
っているのである。問題はポリフォニー的小説も何らかの作者の意志のもとに
統御されていると言う事である。統御されない小説はありえない。やはり、時
代からいくつかの断面の選択がなされているのである。しかし、それにしたっ
て、モノローグ的手法からは、時代を書くと言う事について、また、ドストエ
フスキーの小説と言う事に限って言えば物語的にも、格段の厚みと拡がりがあ
ったと言う事になるのではないか(もちろん、これは単に手法上の区別であり、
モノローグ的小説でも傑作はある)。

 つまり、何が言いたいのかと言えば、ポリフォニーがより広く時代を現すと
言う事について、ぼくの考えている普遍についての概念に重大な示唆があるよ
うに思えたのである。それが、どういうモノであるのかは、まだ、全然判らな
いのだけれど、いずれ意識上に言葉として現われるのではないかと言う事なの
だ。

2006年5月24日水曜日

区切り

No.59ポッポイの汽車に乗って5.17
No.57虹の彼方に5.16
No.44きみのほかには5.11
No.61真夏の夜の夢5.22
No.62さよなら5.23

63本のbasicから以上の5タイトルをDVDに焼く。
“No.62さよなら5.23”をHDテレビで3度見る。
ここまできたか、という感慨もあり。
91年の8月に峠から撮った田沢湖のsunsetシーンに使った
佐々木洋一の詩を2004年8月同じ田沢湖のsunsetを
湖面ぎりぎりで撮ったdigitalHD素材に重ねた。
前半に七つ森を。後半に春の小さな挨拶を添える。
DVDのメニューにはシューベルトのSerenadeを。

明日奈良で、倉持さん、鈴木さん、長岡さん、渡辺に
地震実験の後の晩飯の時に渡します。
二年前の夏。
わが町の「夏休みロケ」をどう乗り切るか、
−5℃と40℃、45℃の温度差のなかで議論を戦わせた
あのなつかしの奈良ロイヤルホテルで、ね。

では、奈良で。
起振台の前で、会いましょう。

2006年5月23日火曜日

裸の“力”

人も動物も樹木も花も、世界の《いのち》は大地から生まれた。
それらのすべての《いのち》は、同時に大地に還っていくものでもある。循環していく《生》。滋味ゆたかな大地は、だから無数のいのちを生み出し、育み続ける。たとえば、目の前に広大な森がある。その森は遠くから見るとどっしりとしたひとかたまりの建造物のように見えるはずだ。よほどの大風が吹いても森全体はさわっと震えて見せるだけ。近づいてみる。遠くからは塊に見えたものが巨大な樹木の群れであったことが見て取れる。さらに近づく。一本の巨大な樹木がある。数十メートルの樹高と数メートルの幹の太さがあるのがわかる。見上げればびっしりと繁った梢が緑の大屋根をつくっている。幹にそって目を下に。ブッシュ。根元のあたりは濃密な草や色濃い花で、すき間なく埋め尽くされている。花の蜜を吸う極彩色の鳥、蝶、変わったカタチの虫なども見えるはず。(熱帯のジャングルではなく田中一村的世界でもいい)さらに焦点を足下に合わせてみよう。つま先のほんの50cmほど前の草むらに目を近づける。

10cm四方の草むらを赤い糸で区切ってみる。それが《世界》だ。たとえば、そこでは数百匹のアリが額に汗しながら花の蜜を吸いすぎて腹がふくらんで飛べなくなった色鮮やかな蝶を力を合わせて運んでいるかもしれない。その行く手には巨大な隕石のような水玉が轟音をあげて落ちていたりする。もちろんそれは単なる雨粒だが。さらに少しはなれたところではてんとう虫のカップルがサンバを踊ったりもしている。さらにもっと小さな名もしれぬ虫達が意味のわからないカーニバルを繰り広げたりしているかもしれない。あちらこちらに、カタチの異なる東京ドームのような大きさの木の実が奇妙な摩天楼をつくっていたり、色とりどりの花粉が風に運ばれて天然色の雪のように降り注いでいるのかもしれない。さらにミクロへと進めば、得体のしれない形状をした生き物が、あるいは生き物とはとても思えないような生命体がB級SF映画のような光景を描いている。さらにミクロへ。巨木の根のほんの一部のそのまた一部の小さな小さなひげのような根が、巨大な地下トンネルとなって、土中の養分と水分をゴウゴウと濁流のような音を立てて運んでいる。その流れの中で悲鳴を上げておぼれている何かの細胞の姿も見える。もっとミクロへ。細胞。さらにディティルに…ディティルの先に無限。これが、《世界》だ。

人間は、この《世界装置》と構成要素のほんのひとかけらである。ナチュラルであるということは、こうした世界要素の一部であることを自覚し、限りなくシンクロしていくことだとしよう。

No.63 眠ってしまおうよ5.22

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‘06.5.22荒編 no.06/63
place;幸手桜堤
音楽と語りは1991版“風のササヤンカ村”より

No.62 さよなら5.22

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‘06.5.22荒編 no.06/62
place;田沢湖湖畔
音楽と語りは1991版“風のササヤンカ村”より

深夜になったせいか「No.62さよなら」は
かなりセンチメンタルになった。
素材は2004年、立秋直前の田沢湖湖畔の
トンボのねぐらのようなおかしな場所にカメラを構え
ヤブ蚊に悩まされながら撮ったもの。
そのむかし、「風のササヤンカ村」で
同じ「湖」の詩をあてたのも
また田沢湖を峠から撮ったサンセットだった。
そのときは夕日を撮り終わって
乳頭温泉郷の鶴の湯に泊まり満月を撮った。
おかしなことに2004年のこの夕日の時は、
日暮れ前に鶴の湯で汗を流した。
40℃オーバーの炎天下でロケハンを続け
木造の分校を見つけ事務員の紹介で鶴の湯に向かったのだ。
なんのあてもない、湯治部を発足させた
なつかしの八幡平であることだけに賭け
レガシーのロケハンの道筋をたどりなおしていた。
こだわりがあるのか、単なる温泉好きなのか、
話にならないものぐさなのか
湯治部のメインメンバーは、
じつに同じ場所に向かうことが好きである。
温泉につかって、きもちいい風に吹かれ、
ぐっすり眠ったなぁ
そういう刷り込みがある場所を、
なかなか忘れられないようだ。
しようがねえなあ、とは思うが、ま、いいじゃねえか。
唐突だけど「ササヤンカ」については
中田浩二さん一人に託します。
彼の語りで、おれたちの未来ササヤンカをたどってみたい。
そんな気分になってきた。

その湯治部メインスタッフのみなさん
明日24日に、
奈良平城京跡付近で再会するのを楽しみにしています。
ぼくは新幹線組らしいので、振動実験のときのつなぎ用に
京都で名物柿の葉寿司を手に入れていくつもり。
ほかにオーダーがあれば、
京都駅の名店街で手に入りそうなものを知らせて下さい。
クルマ組は焼津のマグロ丼に時間をかけ過ぎないように。
できれば食べないで来てくれると幸いである。
このあいだうまそうな携帯フォトがとどいたときは
腹が立って手が震え
新幹線のシートでコーヒーをこぼしたからな。

No.61 山間暮色5.22

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06.5.22荒編 no.06/61
place;福島県舘岩村湯の花

No.60 A Midsummer Night's Dream.5.22

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‘06.5.22荒編 no.06/60
place;京都大原、古河