2010年10月18日月曜日

Hello,Goodbye.成功を確信した理由についての備忘10.18未明

企画意図を書いたのが9月の末日。その2日後あたりで茂木健一郎のツィートがたまたま目に留まった。茂木への興味も共感も、それまでほぼゼロだった。著作は一冊も読んでいない。いくつかの質のいい番組をぐうぜん見たことがあるだけだった。つまり、無関係できわめてニュートラルな状態だった。茂木のツィートがなぜTLに表示されたか覚えていないが、たぶんアトランダムにフォローしたどなたかのリツィートだったのだろう。


テーマは【夕日】あるいは【夕暮れ】だった。南の島でのことが100字余りの文字で書かれていた。フラッシュしたのがボラボラ島の初日。で、フォロー。その日、彼が【連続ツィート】と称して目覚ましのトレーニングがわりに書いた【夕日】にちなんだ10くらいのツィートが並んでいた。1から続けて読んでいくうちに、数日前に書いた【慰藉と再生】がオーバーラップ。

【慰藉と再生】は、もともとがスバルレ・レガシーの帯番組プレゼンのため、数年前にD通と組んで考えたもの。数年がかりの制作期間を想定した企画なので、最初の1ダースだけでも湯治部で手がけようと、力を入れマウナケア篇、アマルフィ篇、prince Edward island篇などのパイロット版シノプシスに没頭。改心のイメージが書けた。が、その気になったところで理由不明のまま潰えた。夕日と日の出を1セットにし Re Born/sunset&sunrise が、企画タイトルだった。

Japanesqueをまずは【カタチ】にすると決めた瞬間に、ひっかかっていたこの構想がすっと浮かんだ。九月いっぱいsunsetとmoonriseにこだわっていたことも大きかったが、最大の理由は捨てたはずの数年前のプランだった。吟味しなおし、sunsetにしぼってからは一気に進んだ。それが30日に飛ばした【ハロー,グッド・バイ】プラン。企画名をHello,Goodbye.にしたのはJapanesqueの【日本情緒】を中和したかったことと、決定権を持つターゲットの年代を配慮し、プレゼンをスムーズに進行させるためだった。


茂木の【夕日論】が孕んだ色彩は、予想をこえてJapanesqueのコンセプトとシンクロしていた。さらにそれから数日の間、間欠的に現れる茂木ツィートに【夕日】だけでなくJapanesqueそのものとの重なりを多数見かけた。立松和平に【天然の日本】の帯を書いてもらった時に共感しあった【原風景イメージ】が、湯治部のJapanesque<digitalJapanesqueの根底になっていたけど、ここに新たな共感者を見いだした、とシンクロニシティを確信。

茂木に何かを働きかけたり、巻き込もうという意図はゼロ。立ち上れるのか、離陸できるのか、出す意味はあるのか、この数年狼少年に甘んじてきたDJの、【リトマス試験紙】を発見した、と思えたのだ。なにしろ願掛けまでしたからね、おれは。少しだけ離れた道を行く人が、あぁ夕日をみてないなぁと呟いてくれている。人生にくたびれた、リタイアしてしまった老人ではなく、鎧兜をを身にまとったバリバリの戦びとが、【夕焼けをみたいなぁ】と、その戦いの真っ最中に呟いている。見るはずもヒマもないはずの者のなかに潜んだ【慰藉と再生】への渇望。戦闘中ゆえに抱えこむことになる【不断の不安と切実な希望】。ここを押さえられるなら、【1点突破全面展開】が見える。なら、おれは、勝った。

意識の底に横たわる共同幻想としての【Japanesque】。わたしたちはどこから来たのか。わたしたちとは何者か。わたしたちはどこへ行くのか。D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?タヒチパペーテの空港に掲げられたP.ゴーギャンの遺作。あの問いへのひとつの解としての【一回性】。【二つとあり得ない瞬間】。【多様性としてのいまこのとき】。一期一会としてのJapanesque。さらにいえば【一期は夢よ。遊びなされや ただ狂へ】というneo-Japanesqueの提示。なのだと、妄想はふくらむばかり。

これが、リアルタイムで
この十日あまりに起きたこと。
記憶に色がつくまえに、
備忘として残したかった。

2010.10.17深夜 あるいは10.18未明



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