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ポリフォニーとは、複数の異なる動きの声部が協和しあって進行する音楽のこと。 音楽史上では中世西洋音楽期~ルネサンス期にかけてもっとも盛んに行われた。通常は、それぞれの声部が独立した古典派以降の「モノフニー」の対義語として用いるが、 いくつもの声部から成り立つ「ホモフォニー」に対して使われることもある。
ポリフォニーは「ホモフォニー」のように主旋律・伴奏といった区切りがなく、 どの声部もほぼ同等の比重で絡み合う。 ポリフォニーでもハーモニーは生まれえるが、ポリフォニーは各声部の流れに重点をおいているので、 その結果従属的に生まれたものといえる。ただし、1つのメロディ(またはパート)を複数で奏する場合に生じる自然な「ずれ」は例外とされ、 これは「ヘテロフォニー」とよばれる。
広義では以上の通りだが、 西洋音楽史ではもっと狭義の意味で用いられ、 たとえ複数の声部であってもリズムが別の動きでなければ ポリフォニーとは呼ばないとすることが多く、この意味で、「対位法」と重複する部分をもつ。
上で述べた「ホモフォニー」の対義語とするというのは、この狭義の意味のときである。
引用 polyphony
http://2style.net/misa/kogaku/polyphony.html
2本以上の旋律を同時に重ねる、多声音楽のひとつの形式です。 音楽史上では9〜10世紀ごろから表れはじめ、特にルネサンス時代——15世紀中頃から16世紀にかけては、このポリフォニー音楽の最盛期でした。
私たちが一般に耳にするクラシック音楽(バッハ以降の、18世紀から19世紀にかけての近代の音楽)が、同じ多声音楽でもホモフォニー(fomophony)と呼ばれ、最上部が主旋律として優位を保ち、下の諸声部は和音的な支えの役割を果たすのに対して、ポリフォニー(polyphony)では、それぞれの声部がすべて均等に、互角に絡み合い、全体の音の綾をなしていくもので、どの声部にも主従の関係はありません。従って、ポリフォニーでは各声部の流れに重点がおかれ、ハーモニーはその結果として、従属的に生じるとものと言えます。
もちろん、ポリフォニーとホモフォニーの区別は相対的なものですから、実際の音楽ではこの二つが適当に入り交じっているのが普通です。ただ、全体的の傾向から、ルネサンス期の音楽はポリフォニーの要素が強く、18世紀以降の音楽にはホモフォニーの傾向が著しいと言えるでしょう。
引用 「ポリフォニーについて」 96/04/30 01:34
http://members.jcom.home.ne.jp/tana-masa/rikutu/poli.html
ミハイル・バフチンによれば、ドストエフスキーの小説は、ポリフォニーで
あると言う。このポリフォニーは、本来は音楽用語であるらしく「多声音楽」
と訳されるものらしい(20世紀思想事典)。
バフチンによれば、ドストエフスキー以前の小説はモノローグであると言う。
このモノローグは「単旋律」と訳されている。
ポリフォニー的小説について、バフチンは次のように書いている。
ミハイル・バフチン「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)
第一章 ドストエフスキーのポリフォニー小説
および従来の批評におけるその解釈より引用
「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それ
ぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ド
ストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。彼の作品の中で起こっ
ていることは、複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単
一の客観的な世界の中で展開されてゆくといったことではない。そうでは
なくて、ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、
各自の独立性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込ま
れてゆくのである」
ドストエフスキーは一つの小説に、決っして統合される事のない様々の声と
意識を書いたと言う事。作者も主人公(複数)も他の登場人物も、皆、それぞ
れの声と意識、つまり「それぞれの世界」を持っていると言うのである。それ
らのいくつもの世界が、一つの小説の中に織り込まれているのだと言うのであ
る。重要なのは、それらの世界が「それぞれの世界を持った複数の対等な意識
が、各自の独立性を保ったまま」であると言う事である。つまり、作者の思想
のもとで統合されてあるような世界ではないと言う事なのだ。
つまり、こういう事だ。モノローグ的小説と言うのは、ここで言われている
「複数の個性や運命が単一の作者の意識の光に照らされた単一の客観的な世界
の中で展開されてゆく」ような小説と言う事になる。この小説世界の特徴は、
作者の思想により決定される。作者自身の持つ思想か、そうではないかの問題
ではなく、作者が何らかの思想のもとに、人物、背景、事件、顛末、結末を用
意しているような小説と言う事である。これらの小説は言わば一つの結末に向
けて走る馬車のようなものである。巧みな御者の運転で、読者は御者の用意す
る目的地に向けて、様々の冒険の果てに連れていかれるのである。物語として
の小説は、この御者の腕一つで楽しかったり、楽しくなかったりすると言うの
は衆知の事である。これは物語の持つ面白さに直結する。
ポリフォニー的小説は上の比喩で言えば、読者はめまぐるしく馬車を乗り継
いでいる状態と言う事になる。目的地も一つではない。それは読者に委ねられ
ている。例え、作者が結末らしきものを小説の最後に記そうが、それは読者の
結末と同じにはならない。もちろん、なっても構わないのだが。読者がどの御
者の腕が気にいったかの要素の方が強いのである。モノローグは作者自身が御
者であるが、ポリフォニーは登場人物のすべてが御者であると言っても構わな
いのである。物語的面白さは、ポリフォニーの場合、いくつも見い出せるのだ。
しかし、小説は物語的な面白さだけではいけないらしい。つまり、時代を描
くと言う事である。その作者が現そうとする時代をどのように描くか、つまり
それが小説の一つの問題であるらしいのだ。ぼくは、最近まで、ずっと、小説
を物語としてのみ捉えていたので、このような視点は、まるっきり、欠落して
いたのである。人間、本は読むものである。それはともかくとして、一つの時
代を描こうとする場合、モノローグ的手法は、必然的に一つの時代に対する視
点を確立させていなければならない。それは、どのような思想を用いてであれ、
作者自身の用意する、時代に対する答えを提示しなければならないと言う事で
ある。つまりは、時代に対する作者の判断と言う事である。その判断を巡って、
登場人物たちが、葛藤したり、反目したり、相克したり、殴り合ったり、愛し
あったり、弁証法的に対話したり、殺し合ったり、妊娠したり、出産したり、
卒業したり、旅に出たり、わけもなく憂鬱になったり、嬉しかったり、悲しか
ったりするのである。
もし、小説が、文学が科学であるとするならば、作品はその時代が正しく捉
えられているかで判断されるのだろうか。それとも、それはぼくの大いなる誤
解で、そうではない科学的分析と言うのがあるのだろうか。コントの「三状態
の法則」によれば、思考は三つの相で順次なされていると言う事で、すなわち、
神学的または仮構的な状態、形而上学的または抽象的な状態、科学的または実
証的な状態と言う事であり、文学が科学であるとするなら、この科学的または
実証的な状態と言うのは、どのようなものなのであるか。
話しがそれてしまった。つまり、モノローグ的に時代を書くと言うのは(そ
れが科学的、実証的かの問題は別にして)、問題があるのである。目的を時代
を書くと言う事に限定して、作者側から方法的に考えると無理があるように思
うのである。それは選択の問題として作者に意識されるのではないか。どの立
場から書くかと言う事を作者は選択しなければならない。一つの時代がどのよ
うな時代であるかと言うのは、モノローグの場合、常に一つの断面を取り出す
と言う事でしか表現出来ないのである。取り出された断面は、作者の提示する
断面と言う事でしかなく、それが全的に時代を表現すると言う事は無理なのだ。
それが小説自体の持つ価値とは全く無関係に、モノローグ的小説の時代を表現
する事の限界である。仮に普遍的真実と言うものがあるとして、それをえぐり
だすようにして提出する小説が出て、初めてモノローグ的手法で時代を書いた、
と言う事になるのだ。
ポリフォニーは、その限界を突き破るための手法である。作者は極力、選択
を行わない。時代に現われた思想、立場、生活レベル、職業意識、宗教観、そ
の他いろいろのものを、決して統合させることなく、小説上に展開させるので
ある。これはつまり新聞やワイドショー、ニュースショーの手法である。今ま
で、悲惨な事件を伝えていたその口で、しかも、顔つきまで一転にこやかに、
「さて、好天の日曜、各地の行楽地では‥‥」と始めるのである。
そういえば、バフチンの本にドストエフスキーは新聞をいくつもとって熟読
して、友人たちに新聞を読むようにすすめていたと言う事が書いてある。
もちろん、ポリフォニー的手法を創造したとされるドストエフスキーの小説
が新聞やワイドショーであると言っているのではない。原理的には同じだと言
っているのである。問題はポリフォニー的小説も何らかの作者の意志のもとに
統御されていると言う事である。統御されない小説はありえない。やはり、時
代からいくつかの断面の選択がなされているのである。しかし、それにしたっ
て、モノローグ的手法からは、時代を書くと言う事について、また、ドストエ
フスキーの小説と言う事に限って言えば物語的にも、格段の厚みと拡がりがあ
ったと言う事になるのではないか(もちろん、これは単に手法上の区別であり、
モノローグ的小説でも傑作はある)。
つまり、何が言いたいのかと言えば、ポリフォニーがより広く時代を現すと
言う事について、ぼくの考えている普遍についての概念に重大な示唆があるよ
うに思えたのである。それが、どういうモノであるのかは、まだ、全然判らな
いのだけれど、いずれ意識上に言葉として現われるのではないかと言う事なの
だ。
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