爆睡十時間。めがさめたのが2時ちょっと前。
きのう寝る直前まで浮かんでいたのが
【天然のニッポン】第1巻の【ひかり】篇。
4巻の皮切りとした巻。その冒頭。
http://www.tsurunoyu.com/
鶴の湯で露天♨につかりなごんでいた倉持さんを
月が出そうだから、撮りたいと上がってもらい
宿の庭先で梢の間からひかりをこぼしはじめた
八月末、涼しいというより寒いような
山の夏の終わりの満月に、挑んだ。
三脚の位置とアングル、サイズが
5cmずれていたらNGとなるターゲットだけど
結果は、絶妙のカメラセットとなった。
あれからなんどもなんどもなんども
月や夕日を撮ってきたが
この目の前の梢と彼方の月の
黄金比のような遠近のバランスと
暗部とそこを埋めていく月光の対比感は皆無。
HDどころかデジβですらない
4:3という、いま考えればマンガのような
しかし当時は業界の文法だったサイズで
カメラはただのβcamにすぎなかった。
この余白の黄金比を、ぼくたちは未だ超えられず。
出切るまで、このままでと
7分近く、スタッフ全員が息を詰めた。
そして
目と鼻の先に顔を出した月ではなく
小さなモニターに映しだされる
月光と闇の移ろいだけを見入った。
夏の終わりから秋にかけての月は
見ていて飽きることがない。
冬の冷たさも春のおぼろさもなく
その世界に溶けていくような甘いせつなさがある。
どこにも姿を見せない巨大な光源が
暗闇のなかで、その光が照らし出した
もうひとつの巨大な天体を浮かび上がらせる不思議。
反射によってだけ存在を知ることになる夜の月。
その反射を映し出す小さなブラウン管。
極大と極小が同時に存在し、
同時に認識していることの奇妙さ。
その月が、ここにある⤵
http://www.m-circus.com/columbia/02hikari.html
それから♨につかり興奮をさました。
囲炉裏の炭火の爆ぜる音と
山の夜風がたてるざわめきと
虫の鳴き声、梟の声、野犬の遠吠えを友に
冬布団をかぶってふるえながら寝入った。
その【月光】をひかり篇の冒頭に
1カット約5分置いた。
そして福島さんの
万物は冬に雪崩れていくがいい追憶にのみいまはいるのだ
を冒頭に入れた。
さらに立原道造の「のちのおもひに」を。
草ひばりのうたひやまない
しづまりかえった午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
…そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであろう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
この「のちのおもひに」を受け、詠み人知らずの古歌
ともすれば月澄む空にあくがるる心の涯を知るよしもがな
を置き、プロローグとしたのだ。
曲は菊池雅志がつくり
尺八・菊池雅志、
パーカッション・石塚俊明、
ピアノ・永畑雅人で一発録り。
福島さんには狭いアナブースで絶叫してもらった。
福島泰樹絶叫コンサートではいまでも
【のちのおもひに】という名の
このときの試みが演じられ夜がある⤵
http://homepage.mac.com/torum_3/love/iMovieTheater555.html
「ひかり」は冒頭が
この月光ではじまりラストを落日とした。
ラストの数分は、その春に決まっていた。
太平洋の岩場を染め落ちて行く
早春の夕日をやはりふるえながら撮っている時に
福島さんの絶叫が浮かんだ。
小石川のオフィス(当時の)に戻り
【ふぐ一身百味】の冒頭をあててみた。
その瞬間に、すべてが見とおせた。
正確には、そんな気がした。
後日、倉持さんたちにビデオを見せ
エンディングだけは決まったことを伝えると
みんながどんなふうにリアクションしたのか
覚えていないけど、受け入れられたと思いこんだ。
そのときはまだ、「湯治部」という名はなかった。
ほぼ半年間にわたる【天然のニッポン】ロケと
重なりあった【風と走る。レガシー】の【みちのく】ロケで
どういうわけか毎晩毎晩♨に入っていることに
ある日気づいて撮影部の長岡と相談。
「撮影部」「照明部」と「部」がつくのだから
「演出」も「部」をつけよう。
「演出部」じゃつまんないから「湯治部」どう?
なんてことから撮影チーム全体を「湯治部」とした。
入部条件は「♨がスキです」のみ。
年齢・性別・美醜・性癖・職種・国籍・
思想・信条・趣味・嗜好・なくて七癖など一切合切不問。
入部退部は本人が思い立った、その瞬間から。理由不問。
部の印というか「部旗」を長岡が提案。
で?と聞いたら手ぬぐいを出して広げた。
ど真ん中に【ゆ】と、黒々とした墨文字が一字。
「風林火山」などと比べやけに控えめでたおやかな
その墨文字をながめながら「いいじゃん」と、即断・即決。
そして次のロケからは、どのロケ車の窓にもその墨文字を
コピーした「ゆ」の一文字が、まことに誇らしげに貼られていた。
これが【湯治部】の来歴である。
ちなみに長岡が自慢げに取り出した白い布は
何日か前に立ち寄った湯治宿のものだった。
宿は八幡平後生掛温泉。
ふつう手摺にでもぶら下げたまま置いてくるものを
彼はなにが気に入ったのか持ち帰り
(移動先で♨を見つけるといきなり突入したりがあったので
彼としては不意の♨討ち入りに備えたつもりだったかも)
部のブランドマークをどうしようという
広告屋ならとても大切な会議(旅先のことで立ち話だが)で
臆することもなく屈託のない笑顔でプレゼンテーション。
時が流れ【湯治部】は、ほんらいの出自を
インターネットクラウドの彼方に紛れ込ませ
【ひとは家にかえってゆく】映像チームの
業務連絡メーリングとしてのみ名が残った。
これが【湯治部】の消息である。
【湯治部】のことはさておこう。
狼少年として4年が過ぎた。
「出すぞ出すぞ」と公言しては潰え
潰えてはまた公言しを繰り返して丸4年。
すっかり狼少年ならぬ狼中年と自嘲しながら
【étude】としての試みを痴呆のように続けた。
少しずつ増えていく素材をきっかけに
4年で300本を超えるétudeをつないだ。
デロリンマンのごときこの愚行だが
【湯治部】の数人の人たちだけは
信じていてくれた。
いや、あらためて問いただしたことはないから
そう思わせてくれつづけけたと書くべきか。
その多くは、
冒頭に書いた【天然のニッポンひかり篇】を
ともにつくったひとたちだった。
指折れば数え切れてしまえる数のひとたち。
ひさしぶりにアナログ版の【ひかり篇】
その冒頭5分を再生しながら
この少数のひとたちにカタチを遺すのだ
あらためて、そう思った。
もちろん、彼らのためにがきっかけではない。
ぼくはぼくじしんのために、始めるのだ。
étudeではなく、一度きりの真っ向勝負として。
成るか成らぬかは、どうでもいい。
リハーサルから本番へ。それだけだ。
端緒を切るにあたってひとことだけ
同伴してくれたひとたちに
来歴と感謝を記しておきたかった。
ほんらいならばお一人ずつおめにかかり
直接話し、手を握り謝意を表すべきだが
恥ずかしさが先にたち、困難である。
この照れが、ぼくに今の仕事を選ばせたのだと
そう考えて、どうかお許し願いたい。
直接間接にささえていただき
ほんとうにありがとう。
では
帆を、あげる。
渡るのは
海原ではない。
川、だ。
その川の名は
ルビコン。
渡ったら、二度と戻らない。
ようそろぉ
2010.10.16 17;46
湯治部演出 T.M
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