2010年10月19日火曜日

[時間]12タイトル。どうだろう?

仕事してたら息が詰ってきたので呼吸を回復するため桃源郷に遊ぶ。
【時間】の変化をテーマに頭の中でシミュレーションを1時間。
一日を切り口に5タイトル。季節を切り口に7タイトル。結構、ある。




時間うつろい/ 12タイトル

【ある一日】菜の花畑→すすきと夕日→朧月夜 /渡良瀬遊水池
【ある一日】海の日の出→天使の梯→海の夕日 /犬吠埼
【ある一日】山の日の出→山の夕日→山の満月 /舘岩村湯の花
【ある一日】朝の水田→夕の水田 /舘岩村湯の花+小渕沢郊外
【ある一日】昼の海辺→夕日と海辺 /奄美大島
【夏と秋】新緑のブナ林→紅葉のブナ林 /玉原高原+秋田大館
【春と夏と秋】菜の花の土手→花火大会→夕日 
                                                        /利根川土手+渡良瀬川土手
【夏と冬】初夏の川→雪の川 /伊南川
【夏と冬】初夏の里→雪の里 /前沢曲り家集落
【夏と冬】夏の村→雪の村 /館岩水引
【夏と冬】夏の水辺→冬の水辺 /渡良瀬遊水池
【夏と冬】夏の滝→冬の滝 /奥塩原・会津西街道不動の滝


   
   

2010年10月18日月曜日

Hello,Goodbye.成功を確信した理由についての備忘10.18未明

企画意図を書いたのが9月の末日。その2日後あたりで茂木健一郎のツィートがたまたま目に留まった。茂木への興味も共感も、それまでほぼゼロだった。著作は一冊も読んでいない。いくつかの質のいい番組をぐうぜん見たことがあるだけだった。つまり、無関係できわめてニュートラルな状態だった。茂木のツィートがなぜTLに表示されたか覚えていないが、たぶんアトランダムにフォローしたどなたかのリツィートだったのだろう。


テーマは【夕日】あるいは【夕暮れ】だった。南の島でのことが100字余りの文字で書かれていた。フラッシュしたのがボラボラ島の初日。で、フォロー。その日、彼が【連続ツィート】と称して目覚ましのトレーニングがわりに書いた【夕日】にちなんだ10くらいのツィートが並んでいた。1から続けて読んでいくうちに、数日前に書いた【慰藉と再生】がオーバーラップ。

【慰藉と再生】は、もともとがスバルレ・レガシーの帯番組プレゼンのため、数年前にD通と組んで考えたもの。数年がかりの制作期間を想定した企画なので、最初の1ダースだけでも湯治部で手がけようと、力を入れマウナケア篇、アマルフィ篇、prince Edward island篇などのパイロット版シノプシスに没頭。改心のイメージが書けた。が、その気になったところで理由不明のまま潰えた。夕日と日の出を1セットにし Re Born/sunset&sunrise が、企画タイトルだった。

Japanesqueをまずは【カタチ】にすると決めた瞬間に、ひっかかっていたこの構想がすっと浮かんだ。九月いっぱいsunsetとmoonriseにこだわっていたことも大きかったが、最大の理由は捨てたはずの数年前のプランだった。吟味しなおし、sunsetにしぼってからは一気に進んだ。それが30日に飛ばした【ハロー,グッド・バイ】プラン。企画名をHello,Goodbye.にしたのはJapanesqueの【日本情緒】を中和したかったことと、決定権を持つターゲットの年代を配慮し、プレゼンをスムーズに進行させるためだった。


茂木の【夕日論】が孕んだ色彩は、予想をこえてJapanesqueのコンセプトとシンクロしていた。さらにそれから数日の間、間欠的に現れる茂木ツィートに【夕日】だけでなくJapanesqueそのものとの重なりを多数見かけた。立松和平に【天然の日本】の帯を書いてもらった時に共感しあった【原風景イメージ】が、湯治部のJapanesque<digitalJapanesqueの根底になっていたけど、ここに新たな共感者を見いだした、とシンクロニシティを確信。

茂木に何かを働きかけたり、巻き込もうという意図はゼロ。立ち上れるのか、離陸できるのか、出す意味はあるのか、この数年狼少年に甘んじてきたDJの、【リトマス試験紙】を発見した、と思えたのだ。なにしろ願掛けまでしたからね、おれは。少しだけ離れた道を行く人が、あぁ夕日をみてないなぁと呟いてくれている。人生にくたびれた、リタイアしてしまった老人ではなく、鎧兜をを身にまとったバリバリの戦びとが、【夕焼けをみたいなぁ】と、その戦いの真っ最中に呟いている。見るはずもヒマもないはずの者のなかに潜んだ【慰藉と再生】への渇望。戦闘中ゆえに抱えこむことになる【不断の不安と切実な希望】。ここを押さえられるなら、【1点突破全面展開】が見える。なら、おれは、勝った。

意識の底に横たわる共同幻想としての【Japanesque】。わたしたちはどこから来たのか。わたしたちとは何者か。わたしたちはどこへ行くのか。D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?タヒチパペーテの空港に掲げられたP.ゴーギャンの遺作。あの問いへのひとつの解としての【一回性】。【二つとあり得ない瞬間】。【多様性としてのいまこのとき】。一期一会としてのJapanesque。さらにいえば【一期は夢よ。遊びなされや ただ狂へ】というneo-Japanesqueの提示。なのだと、妄想はふくらむばかり。

これが、リアルタイムで
この十日あまりに起きたこと。
記憶に色がつくまえに、
備忘として残したかった。

2010.10.17深夜 あるいは10.18未明



2010年10月17日日曜日

弥太郎が国にむかって切った啖呵



仕事を最終的に引き受けることになったのは、
とりあえず預かった膨大な資料を読み込んでいくうちに
あるひとつま言葉と出あったことが大きかった。
自分の中で勝手にふくらませていた三菱の創設者の印象と
その言葉との隔絶ぶりに、もうれつな好奇心が湧いた。
展示演出としては空間の関係で実現しなかったが
【情報ボード】のなかに映像とグラフィックスで
この岩崎の【時代への啖呵】を組み入れた。
港を撮る時に必要以上に思い入れがあったのは
この三行の岩崎の国家に切った啖呵ゆえだと思う。
つなぐということに心意気がからむことがあるとすれば
それもまたもこの三行ゆえのこと。



+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++  

「 われを国賊というか。政府が果たしてその方針なら、
           われもまた所有の汽船を残らず遠州灘に集めて焼き払い、
           残りの財産を全部自由党に寄付せん 」
                 岩崎弥太郎 共同運輸との戦いの渦中の発言



●言葉の海
   
人の心をわしづかみできるのは
「言葉」である。
言葉こそが、体験を記憶を確かなものにし、
永遠にとどめようとする。
日本郵船の創始者、岩崎弥太郎が
時代と真っ向から向かい合いながら
発していった言葉の群れは、
日本という国の若さそのもののように
熱く激しいものだった。
日本郵船のそののちの興隆の源は、
岩崎弥太郎の数々の檄のうちにある
と言っても過言ではない。
岩崎弥太郎が
折に触れ発してきた言葉が薄い布地に墨書され、
ゾーン全体に天井から垂れ下がっている。
この布はかすかな風によっていつもそよいでいる。

かすかな風は、
時代の風である。
事実として残された岩崎弥太郎の
言葉だけで構成される
「日本郵船誕生秘話」である。
来館者は、岩崎のこの言葉の海によって
その後の日本郵船の
世界へと向かう意志を刻み込むことになる






【日本を、ひらく。】

sunsetシリーズの【横浜】の夕暮れをつなぎながら
素材を撮った頃を思い出していた。夕暮れはいずれも
必要な撮影が終わった後の余力でプライベートに撮った。
つなぎながら妙な【熱さ】を感じたので気にかかり
ワタナベから当時の企画書を転送してもらう。
下にコピーしたのは、企画書を書く前の草稿。
読み返しながら、【熱気】の芯がわかった気がした。
特別な場所だったのだ、とあらためて思えた。
8月15日の日付が残っていた。


++++++++++++++++++++++++++++++++++++
この 海にかこまれ
海によって遥かな世界と結ばれた国は
太古から今日に至るまで 
さらにその先の日々のすべてが
いわば海とともにありつづける。
ヒトもモノも希望も絶望も文化も文明も
すべては海を経てこの国を満たし あふれた。
わたしたちは このあたりまえの事実を
知識としていちど記憶しながら 忘れている。
創業以来 この国の近代化とともにあり
根底から支え続けてきた日本郵船もまた
海そのもののように 
その存在は人びとの意識の深部に
痕跡と航跡を秘めつづけてきたように見受けられる。

日本郵船の歴史は この国の近代を開く歴史であり
来るべき明日は この国の未来を開く 
新しい歴史である。
わたしたちが考える 
あたらしい《日本郵船歴史資料館》は
過去の歴史と 来るべき明日の姿を 
一本の頑丈な舫い綱として織り込んだ 
奔放なアラベスクとなる。

日本郵船の120年におよぶ歴史をたどることは
そのまま 
わたしたち自身の近代化の歴史をたどることでもある。

日本郵船は、そしてわたしたちは
どこから来たのか? 
なにものなのか? 
どこへ行くのか?
あたらしい《日本郵船歴史資料館》は
この根源的な三つの問いを 
すべての来館者に向けて投げかける。
来館者は 
この歴史資料館で一つの整理された過去に出会うのではなく
変化し進化しつづけ とどまることのない 
ある一つの生命活動の
昨日と今日と明日に 向かい合うことになる。

海をめぐって繰り広げられ 
さらに深められていこうとする
あらぶる波頭のような 
生きた時間と向かい合うことになるのだ。



あたらしい《日本郵船歴史資料館》が示そうとする
生きてきた時間 生き続ける時間を 
一つのことばに置き換えると
それは 《日本を、ひらく》ためにあり 
あり続ける時間の群れである。

これまでの日本をひらき、いまの日本をひらき、
この先の日本をひらく…

わたしたちはここで
展示ストーリーの根底に 
この一つのことばを据えてみたい。
日本郵船歴史資料館の展示の根幹に置いてみたい。
その言葉こそは…



日本を、ひらく。



二つののゆうぐれ論とシュートスタイル



日暮れ時一瞬の世界は夢幻のように美しい、布のかかった家屋の窓にオレンジ色の明かりがぼやけ、遠くの空は薄桃色にかすんでいる。

2010年10月16日土曜日

ルビコン川を渡れ10.10.16


爆睡十時間。めがさめたのが2時ちょっと前。
きのう寝る直前まで浮かんでいたのが
【天然のニッポン】第1巻の【ひかり】篇。
4巻の皮切りとした巻。その冒頭。

http://www.tsurunoyu.com/
鶴の湯で露天♨につかりなごんでいた倉持さんを
月が出そうだから、撮りたいと上がってもらい
宿の庭先で梢の間からひかりをこぼしはじめた
八月末、涼しいというより寒いような
山の夏の終わりの満月に、挑んだ。

三脚の位置とアングル、サイズが
5cmずれていたらNGとなるターゲットだけど
結果は、絶妙のカメラセットとなった。
あれからなんどもなんどもなんども
月や夕日を撮ってきたが
この目の前の梢と彼方の月の
黄金比のような遠近のバランスと
暗部とそこを埋めていく月光の対比感は皆無。
HDどころかデジβですらない
4:3という、いま考えればマンガのような
しかし当時は業界の文法だったサイズで
カメラはただのβcamにすぎなかった。
この余白の黄金比を、ぼくたちは未だ超えられず。

出切るまで、このままでと
7分近く、スタッフ全員が息を詰めた。
そして
目と鼻の先に顔を出した月ではなく
小さなモニターに映しだされる
月光と闇の移ろいだけを見入った。
夏の終わりから秋にかけての月は
見ていて飽きることがない。
冬の冷たさも春のおぼろさもなく
その世界に溶けていくような甘いせつなさがある。
どこにも姿を見せない巨大な光源が
暗闇のなかで、その光が照らし出した
もうひとつの巨大な天体を浮かび上がらせる不思議。
反射によってだけ存在を知ることになる夜の月。
その反射を映し出す小さなブラウン管。
極大と極小が同時に存在し、
同時に認識していることの奇妙さ。
その月が、ここにある⤵
http://www.m-circus.com/columbia/02hikari.html

それから♨につかり興奮をさました。
囲炉裏の炭火の爆ぜる音と
山の夜風がたてるざわめきと
虫の鳴き声、梟の声、野犬の遠吠えを友に
冬布団をかぶってふるえながら寝入った。

その【月光】をひかり篇の冒頭に
1カット約5分置いた。
そして福島さんの

万物は冬に雪崩れていくがいい追憶にのみいまはいるのだ
を冒頭に入れた。
さらに立原道造の「のちのおもひに」を。

草ひばりのうたひやまない
しづまりかえった午さがりの林道を
うららかに青い空には陽がてり 火山は眠ってゐた
…そして私は
見て来たものを 島々を 波を 岬を 日光月光を
だれもきいてゐないと知りながら 語りつづけた……
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであろう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう
この「のちのおもひに」を受け、詠み人知らずの古歌

ともすれば月澄む空にあくがるる心の涯を知るよしもがな

を置き、プロローグとしたのだ。


曲は菊池雅志がつくり
尺八・菊池雅志、
パーカッション・石塚俊明、
ピアノ・永畑雅人で一発録り。
福島さんには狭いアナブースで絶叫してもらった。
福島泰樹絶叫コンサートではいまでも
【のちのおもひに】という名の
このときの試みが演じられ夜がある⤵
http://homepage.mac.com/torum_3/love/iMovieTheater555.html

「ひかり」は冒頭が
この月光ではじまりラストを落日とした。
ラストの数分は、その春に決まっていた。
太平洋の岩場を染め落ちて行く
早春の夕日をやはりふるえながら撮っている時に
福島さんの絶叫が浮かんだ。
小石川のオフィス(当時の)に戻り
【ふぐ一身百味】の冒頭をあててみた。

その瞬間に、すべてが見とおせた。
正確には、そんな気がした。
後日、倉持さんたちにビデオを見せ
エンディングだけは決まったことを伝えると
みんながどんなふうにリアクションしたのか
覚えていないけど、受け入れられたと思いこんだ。


そのときはまだ、「湯治部」という名はなかった。
ほぼ半年間にわたる【天然のニッポン】ロケと
重なりあった【風と走る。レガシー】の【みちのく】ロケで
どういうわけか毎晩毎晩♨に入っていることに
ある日気づいて撮影部の長岡と相談。
「撮影部」「照明部」と「部」がつくのだから
「演出」も「部」をつけよう。
「演出部」じゃつまんないから「湯治部」どう?
なんてことから撮影チーム全体を「湯治部」とした。
入部条件は「♨がスキです」のみ。
年齢・性別・美醜・性癖・職種・国籍・
思想・信条・趣味・嗜好・なくて七癖など一切合切不問。
入部退部は本人が思い立った、その瞬間から。理由不問。

部の印というか「部旗」を長岡が提案。
で?と聞いたら手ぬぐいを出して広げた。
ど真ん中に【ゆ】と、黒々とした墨文字が一字。
「風林火山」などと比べやけに控えめでたおやかな
その墨文字をながめながら「いいじゃん」と、即断・即決。
そして次のロケからは、どのロケ車の窓にもその墨文字を
コピーした「ゆ」の一文字が、まことに誇らしげに貼られていた。
これが【湯治部】の来歴である。

ちなみに長岡が自慢げに取り出した白い布は
何日か前に立ち寄った湯治宿のものだった。
宿は八幡平後生掛温泉。
ふつう手摺にでもぶら下げたまま置いてくるものを
彼はなにが気に入ったのか持ち帰り
(移動先で♨を見つけるといきなり突入したりがあったので
彼としては不意の♨討ち入りに備えたつもりだったかも)
部のブランドマークをどうしようという
広告屋ならとても大切な会議(旅先のことで立ち話だが)
臆することもなく屈託のない笑顔でプレゼンテーション。

時が流れ【湯治部】は、ほんらいの出自を
インターネットクラウドの彼方に紛れ込ませ
【ひとは家にかえってゆく】映像チームの
業務連絡メーリングとしてのみ名が残った。
これが【湯治部】の消息である。


【湯治部】のことはさておこう。


狼少年として4年が過ぎた。
「出すぞ出すぞ」と公言しては潰え
潰えてはまた公言しを繰り返して丸4年。
すっかり狼少年ならぬ狼中年と自嘲しながら
【étude】としての試みを痴呆のように続けた。
少しずつ増えていく素材をきっかけに
4年で300本を超えるétudeをつないだ。

デロリンマンのごときこの愚行だが
【湯治部】の数人の人たちだけは
信じていてくれた。
いや、あらためて問いただしたことはないから
そう思わせてくれつづけけたと書くべきか。
その多くは、
冒頭に書いた【天然のニッポンひかり篇】を
ともにつくったひとたちだった。
指折れば数え切れてしまえる数のひとたち。

ひさしぶりにアナログ版の【ひかり篇】
その冒頭5分を再生しながら
この少数のひとたちにカタチを遺すのだ
あらためて、そう思った。

もちろん、彼らのためにがきっかけではない。
ぼくはぼくじしんのために、始めるのだ。
étudeではなく、一度きりの真っ向勝負として。
成るか成らぬかは、どうでもいい。
リハーサルから本番へ。それだけだ。
端緒を切るにあたってひとことだけ
同伴してくれたひとたちに
来歴と感謝を記しておきたかった。
ほんらいならばお一人ずつおめにかかり
直接話し、手を握り謝意を表すべきだが
恥ずかしさが先にたち、困難である。
この照れが、ぼくに今の仕事を選ばせたのだと
そう考えて、どうかお許し願いたい。
直接間接にささえていただき
ほんとうにありがとう。


では
帆を、あげる。
渡るのは
海原ではない。
川、だ。
その川の名は
ルビコン。
渡ったら、二度と戻らない。
ようそろぉ
    2010.10.16 17;46  
     湯治部演出 T.M




2010年10月15日金曜日

閑話休題10.15夜。ちあきなおみの♪ダンチョネ節あるいは慕情。






十日あまりの夕日づけからアタマを
カットチェンジしたかった。


それがひとつめの理由。だった。
脱け出すために、もぐらせる。
さらに沈める。それは、成功。

ふたつめが、あった。
これは笑い話のような、妄想。
と、したい。

したいが、できるか?


福島泰樹を一首引く。
げに春は驟雨とともにはじまるを咲かぬ桜よ慕情というは


上野の森の満開の夜桜にあてた借り歌。
これから秋が深くなり冬にむかうというのに、
胸の底にあでやかな緋桜が咲いている。
仕事モードへの切り替えとDJapanesqueへの渇望が
こんな気分をかき立てたのだ。

と、決めた。
15時間ばかり爆睡し
撮影プランにとりかかろう。


2010年10月14日木曜日

まち。E139.39 N35.26  ♪別れのブルースあるいは♪ノクターン




♪窓を開ければ
港が見える
メリケン波止場の灯が見える

夜風潮風恋風のせて
今日の出船はどこへゆく

むせぶこころよ
はかないこいよ
踊るブルースのせつなさよ

腕に錨の入れ墨彫って
やくざに強いマドロスの
お国ことばは違っていても
恋には弱いすすり泣き

二度と会えない
こころと心
踊るブルースのせつなさよ



淡谷のり子、
石川さゆり、
憂歌団、
森進一がiTunesに入っていたので
とりあえずぜんぶ聴いてみた。

で、今宵の歌い手は森進一バージョン。
三人とも森の♪それは恋が好きだったしな。

どれも、あかりやからもらったものだった。

あかりやに、献杯。
池田さんに献杯。
そして、辻に献杯。
きみたちが逝った、その秋の夜に献杯したい。

映像は
きみたちが褒めてくれた
あの日本郵船博物館のときに撮ったもの。
出船の霧笛は、
大桟橋から出帆する真っ白な飛鳥のものだ。


むりやり、
雨の港も、重ねておいたぜ。